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 被災地人民の怒りとともに民主党政権打倒!
 今こそ国鉄全国運動の発展を
 771号~(2012.4.1~)
751号~770号(2012.2.~3.30) 731号~750号(2011.10.~12.24)
  711号~730号(2011.10.~12.24) 691号~710号(2011.10.14~11.9)

スケジュール
国鉄闘争全国運動のホームページ
http://www.doro-chiba.org/z-undou/z-index.htm
NAZENブログは、こちら 福島診療所建設委員会ホームページはこちら

4・11 西山監督の映画上映会
そこに、3・11郡山で再会した
西山正啓監督・登場
 http://no-nukes-ichikawa.blogspot.jp/p/blog-page_19.html#!/p/blog-page_19.htmlから転載
「原発震災を問う人々」シリーズ第1弾

 6月26日、経済産業省が佐賀県で開催した県民説明会、と言っても主催者が選んだ限定7名への説明会。しかもケーブルテレビ局のスタジオで行うという異常さ。この欺瞞に満ちた県民説明会に九州電力が組織ぐるみで賛成意見を投稿した、いわゆる「やらせメール事件」が発覚し、佐賀玄海原発再稼動をめぐる問題が一躍全国から注目をあびることになりました。国の安全宣言と保障をねだる地元町長。未だ収束しない福島原発の惨状を前にして尚、安全宣言の安売りをする海江田経産大臣。初めに再稼動ありきの茶番劇が九州を舞台に現在進行形で展開しています。その九州で昨年末から脱原発運動に取り組む人たちと協働で「脱原発社会を目指すための記録映画製作」の準備を進めてきましたが、この度その第一作「脱原発いのちの闘争」が完成しましたのでご案内致します。

 映画製作プロジェクトを立ち上げようとしたその矢先、未曾有の東日本巨大地震が起きました。何の因果か、私はそのとき、玄海原発プルサーマル(MOX燃料使用差し止め)裁判の公判廷の中にいました。その後次々と巨大地震、津波の広域被害だけでなく福島第一原発が事故を起こしているということも判ってきました。東日本大震災は地震、津波に加え原発震災という最も恐れていた事態が現実のものとなってしまったのです。国民はフクシマ原発震災がもたらす放射能汚染という見えない恐怖に脅かされることになりました。都市住民によって買い占められる水、食糧(農産物、水産物)。風評被害もあっという間に広がりました。生産しても売れない、出荷も出来ない生殺し状態の農業者、漁業者が苦痛に耐え、怒りに震えています。一旦事故が起きれば制御できない原発の実態が日を追うごとに明らかになってゆく。いつ起こるか知れない原発震災の恐怖を長い間訴えながら政府や電力会社から無視されつづけてきた「反原発」「脱原発」住民運動に取り組む人々が一斉に行動を始めました。チェルノブイリ以来、久しく鳴りを潜めていた脱原発運動が世界中で湧き起こってきました。日本でもこれまで原発に関心を持たなかった人までもがフクシマの惨状を前にしてようやく意思表示を始めたのです。この記録映画の舞台となる九州は、玄海原発1号機の老朽化とプルサーマル発電の危険性、鹿児島川内原発の3号機(世界最大級)増設計画を抱え揺れていました。しかし九州電力は危惧する市民と真摯に向き合うことも、誠実な対応もしてこなかった。

 4月20日、脱原発ネットワーク・九州、九州電力消費者株主の会は九州電力本店前にテントを張り、九電との交渉を求める無期限の座り込み行動を呼びかけた。テントは「原発止めよう!九電本店前ひろば」と名付けられた。 今回の映画「原発震災を問う人々」シリーズ第一弾!「脱原発いのちの闘争」(102分)は、鹿児島川内原発周辺の海岸で「温排水と海の生物の異変」を記録しつづけている、海がめ産卵・ふ化保護監視員・中野行男さんの活動と、5月18日に行われた「原発廃炉を求める連絡会260団体」対「九州電力」の原発の安全性をめぐる徹底討論を中心に構成。九電株主総会(6月28日)当日に行われた人間の鎖行動。海江田経産大臣の佐賀(安全宣言)訪問、九電やらせメール発覚によって混迷を深める佐賀県庁への抗議行動など、住民による、住民の生存権を問う、いのちの闘争を記録したものです。職員による人間バリケードで住民との対話を一切拒否してきた佐賀県への抗議行動では俳優・タレントで知られる山本太郎さんが飛び入り参加をした。 芸能人が社会的発言をするには相当の勇気がいると想像する。それが「反原発」「脱原発」発言であれば、なお更である。電力会社による独占体制の既得権益ムラに組み込まれているのは政官産学だけではない。広告収入に依存する新聞・テレビマスコミ、芸能界も同じだからだ。山本太郎さんは、原発は生命にかかわる問題だから自由に発言したいと所属事務所を辞め、子どもたちの生命を守るために全国区の行動を起こした。佐賀県庁行動で発する彼のメッセージは明快で説得力がある。必見のシーンである。 「私たちは帰りたくても帰れない。福島を返して欲しい!」映画のラスト、福島から避難してきた若い母親の問いかけに、我々はどう応えることができるか。日本の新聞、テレビは政治家のぶら下がり取材や、記者クラブ制度にあぐらをかいた特権的取材に力は入れても現場で行動する市民・住民の声を何故か伝えようとしない。

 子を持つ若い母親たちの「いのちを賭けた」抗議行動。彼女たちの止むに止まれない必死の行動と肉声を記録し、多くの人々に伝えなければならない。

西山正啓監督

 シリーズ「原発震災を問う人々」製作にあたり脱原発社会への想像力と創造力2011年3月11日午後2時46分以来、我々はかつて経験したことのない光景を目撃している。巨大地震、津波に加え、原発震災、放射能汚染、実害・風評被害が深刻だ。 放射能は大地を汚染し、飲料水、農産物だけでなく生態系のあらゆるものを汚染する。我々は放射能という見えない脅威に怯え、社会不安は増すばかり。故郷を追われる人々。自治体ごと他県に避難せざるを得ない人々。何の罪もない人々が生殺しの目に遭っている。これまで産業界もマスコミも競って安心・安全を売り物にしたオール電化生活を謳い、その生活を享受してきた首都圏住民が汚染パニックに陥った。皮肉にも安心・安全を誇大宣伝してきた原子力発電がその破滅的正体を晒したのだ。

 東日本巨大地震が起きたとき、私は玄海原発プルサーマル(MOX燃料使用差し止め)裁判の公判廷の中にいた。電力会社が用意した準備書面は専門用語と数値の羅列だ。すぐ理解しろと言う方が無理だ。誰かが、この裁判は科学(者)論争だと言った。しかし広島、長崎、スリーマイル、チェルノブイリそしてフクシマも人間が引き起こした地獄絵図である。30年前、原爆の図の画家で知られる丸木俊さんが、撮影中に「(原爆を)経験したことがないからわかりません。」という子どもの質問に「経験することは死ぬことよ。私たちには想像する力があるのだから。」と答えた。

 これほどわかりやすい言い方はないと思った。我々の社会は一極集中型の巨大発電・供給システムが如何にリスクが大きいかを体験した。 「脱原子力発電~原発依存社会から脱却せよ!」である。3・11は戦後66年間で築き上げてきた一極集中型の社会システムが破綻したのである。原発震災を問う人々、小規模・多様・地域分散型(再生可能エネルギー)電力供給システムを追及する人々、この時代の難局を乗り越えるために、難題中の難題に確固たる意思をもって挑む人々を映画で記録したいと思う。根こそぎ家を失い、家族を失った被災者の苦痛と、そして今も尚、高濃度放射能汚染を食い止めるために命がけで作業する人々への細心の想像力を働かせながら。脱原発!我々は思考停止してはならない。

西山正啓

 1948年山口県生まれ。86年から沖縄読谷村に滞在して「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」製作、強制集団死遺族の証言、読谷高校の卒業式で繰り広げられた「日の丸」強制に抵抗する高校生たちの行動を映画「ゆんたんざ沖縄」に記録した。2000年には「未来世を生きる~沖縄戦とチビチリガマ」を発表。 代表作に「しがらきから吹いてくる風」「梅香里」「ぬちどぅ魂の声」「朋の時間~母たちの季節」「水俣わが故郷」「米軍再編・岩国の選択」「消えた鎮守の森」「貧者の一灯」シリーズ三部作。「知花昌一・沖縄読谷平和学」「チビチリガマから日本国を問う!」「恨ハンを解いて、浄土を生きる」など「ゆんたんざ未来世」シリーズ三部作。現在、新シリーズ「原発震災を問う人々」を製作中。「脱原発いのちの闘争」はその第一弾。

ご 案 内
  星野 暁子
 桜が咲きました。徳島刑務所でも、グランドの桜は見事で、毎年「観桜会」が開かれます。2・5徳島刑務所包囲デモの高揚に対して、友人の手紙の「禁止」「差し止め」「一部抹消」が続いてきましたが、創意工夫して反撃していきましょう。
 文昭の処遇が、4月から、3類に復帰しました。月3回、面会することができます。懲罰、指導票を乱発して、進級させないことも考えられたので、ひとまずよかったです。
 3月30日付けで、文昭の第二次再審請求が棄却になりました。若原裁判長は、検察官意見書に追従して、「厳島鑑定書」を非難し、KR供述を全面的に認めています。しかも、なんと「捜査官による誘導もそれが不当なものでない限り有効な記憶喚起の方法になる」と捜査官のでっちあげを完全に居直っています。厳島氏による実験が、「誘導」しなかったから、充分な記憶喚起ができなかったのだ等と言っているのです。
 文昭と私は、元気です。まず必要なことは、余裕をもって棄却決定批判を完成させていくことです。真実は、ひとつです。やっていないものはやっていないのです。ここに依拠して、反撃していきましょう。友人から言われたように、「今が、頑張りどころ」です。
 4月13日の「とり戻そう!星野解放集会」は、再審棄却に反撃する出発点をつくる重要な集会になります。参加の方、よろしくお願します。
 画期的だった2・5徳島刑務所包囲デモをふまえた次のステージに、私たちは立っています。文昭は、生命すら奪うような無期攻撃に対して、37年間、日々勝利してきました。フクシマに対して、沖縄に対して、西郡に対して、非正規の労働者に対して、今、同じ質の攻撃がかけられています。分断を許さず、ひとつに繋がって闘えば、勝利することができます。また、「星野の闘いを一体に闘えるようになった」とデモ参加者からの感想も労働者から、聞かれます。星野の大衆運動としての進展も、さらに実現していきましょう。

今年は、集会と絵画展を同じ阿佐ヶ谷地域区民センターで行います。人として生きる喜びと感動、愛を描いた文昭の絵、こちらも足を運んでいただけるとうれしいです。今回は、特別に、被災地とフクシマのために描いた3部作も展示します。

 要綱 

 4・13 とり戻そう!星野文昭解放集会(資料代 500円)

    講演 岩井信(星野文昭再審主任弁護人)

    日時 4月13日(金) 午後6時開場 6時30分開始

    開場 阿佐ヶ谷地域区民センター 3F 第4・5集会室

 

  無実の政治犯 星野文昭・暁子 絵と詩展   (無料)

    日時 4月12日(木)~16日(月)

    会場 阿佐ヶ谷地域区民センター 1F 「阿佐ヶ谷ぶらっとりー」

  主催 星野文昭さんを取り戻そう!東京連絡会

  連絡先 (03-3591-8224)  

絵と詩展 kaiga120412.pdf へのリンク
4・13 とり戻そう! 星野文昭解放集会 
syuukai120413.pdf へのリンク

4.14反原発★反失業吉祥寺デモ(なきちデモちらし)
illustrated by Hide


4月11日(水)
今日から、三里塚の産直野菜の青空市を水曜日に開きます
今夜、西山監督の映画会を開きます
昼食はアナゴちらし
3時のオヤツ
夕食、一足先にオカちゃんは 西山監督、到着 まずは乾杯
定番、塩ちゃんこ
三里塚の里芋煮 三里塚のホウレン草おひたし 揚げナスとオロシの和え物
壁に映します
壁に映します

 だ  ん   け  つ  2012年4月11日  
773
東京北部ユニオン 「街」分会
関町北4-2-11

電話 3928-1378
NAZEN青森先頭に、
六ヶ所村内デモに立つ
 NAZEN青森を結成した翌日の4月8日、NAZENの仲間は決意も新たに六ヶ所現地に出発。マイクロバスを満杯に総勢40人の部隊で現地に向かった。午前10時から六ヶ所再処理工場門前で抗議集会。10時半から全体集会に合流し、「再処理とめろ!」と怒りのシュプレヒコールを何度も何度も工場に向かって叩きつけた。

 門前闘争の高揚をそのままに、NAZENの隊列は六ヶ所村内デモに打って出た。デモ参加者それぞれが六ヶ所村でデモに出ることの激しさ、緊張感、決意をかみしめながら、声を張り上げてデモをした。家の中から手を振るお婆さん。一方で、車の窓からつばを吐き捨てる青年。反応は真っ二つだ。

 2012年に入って、六ヶ所村及び下北半島では、核燃サイクル政策が揺らぐ中、県や村、関連企業が激しく核燃サイクルを維持せよと国に迫り、3・11以降止まっていた各施設の工事を再開している。一方で3・11には県内でも1800人の反原発・反核燃集会が開催された。激しいせめぎ合いの渦中にあるのだ。この局面にNAZENは、「六ヶ所漁民、農民、労働者とともに生き死にをともにするぞ!」「フクシマとともにすべての核をなくし生きよう!」とデモをした。本当にかけがえのない、歴史的出発点をNAZENとして切り開いた。

 NAZENの部隊は車をさらに北へ走らせた。六ヶ所から車で30分。東北電力東通原発申し入れに向かった。門は固く閉ざされ警備会社の職員が対応。今日は東北電力の対応する職員がいないので代行して受け取ると言う。しかし、「あなたは警備会社でしょ。電力会社が受け取るべき」「事前の電話の話では当直がいるはずだ」の追及に押され、東北電力の職員が原発建屋から車で門まで出て来て、NAZEN織田陽介事務局長からの申入書を受け取った。私たちは「再稼動を絶対に許さないぞ!」とシュプレヒコールを上げ、ゲート前で総括を行い、NAZENはすべてを引き受けて飛躍して闘っていくことを確認して2日間の闘いを終えた。

 2012年「4・9反核燃の日」闘争とNAZEN青森結成の闘いは決定的な地平を切り開いた。フクシマととことん結びついて闘うNAZENが青森の地に、4・9闘争と一体で立ち上がった。反核燃を闘い抜き市民運動を担ってきた仲間も、労働組合、職場で格闘する仲間も総決起して組織化と結集を闘った。一人の青年、一人の学生の獲得を実現しようと闘った。NAZEN事務局長、事務局次長が弘前大学にもかけつけ、そこで出会った青年が2日間の全行程を闘い抜いた。大勝利だ!野田政権の再稼動を絶対に許さず闘いを前進させよう。(青森・S)

反核燃大集会とともに、
NAZEN青森の結成かちとる!
 2012年「4・9反核燃の日」闘争は、野田政権の原発再稼動突破の攻撃と対決し、4月7日、青森市内での全国集会に1146人を結集して闘われた。

 
 3・11福島集会を引き継ぎ、改めて「原発なくそう!」「核燃なくそう!」の人民の意志が示された。NAZEN隊列はドラムに合わせ元気にはねてデモに出発。デモの終わりには小雪が吹雪に変わったが、参加者はそれに負けずにデモを打ち抜いた。

 7日17時からNAZEN青森結成集会が開催された。司会を南部バス労組書記長がつとめ、開会あいさつを間山正茂南部バス労組委員長が行った。

 集会は、二つの提起を柱に進められた。初めにフクシマから椎名千恵子さんが「ひるまず、豊かに99%の怒濤を!」と題してアピール。福島では復興予算で様々なプロジェクトがつくられ、「除染」「身体検査」「給食安全検査」などに数百億から数千万円の予算がつけられて「国も県もいろいろやっているじゃないか」というキャンペーンになっている。そして、いわき市で双葉いじめがはやり、コンビニが混んでも双葉のせいだと話されているという現実に、ひるんでしまいそうになるという思いが率直に語られた。それは、逆に椎名さんを始めとする「福島の女たち」の闘いがいかに偉大なものかを示した。3・11福島集会が、復興翼賛色で染め上げられることを打ち破ったことの大きさ。改めて「『原発いらない!』を集会名称に入れることができて良かった」の言葉の意味を会場全体でかみしめた。椎名さんが最後に「ひるみませんよ。がんばりましょう」とまとめた中に、まさに椎名さんの心からの“前に進もう!”という決意が伝わってきた。

 続いて、青森からの提起として「青森反核燃闘争のこれまで」を八戸北伝道所牧師であり写真家の岩田雅一さんが提起。「これから」を百万人署名運動・青森県連絡会代表の中道雅史さんが提起した。岩田牧師は、戦前から続く国の本質が六ヶ所、フクシマをもたらしていることを弾劾し、中国残留孤児の方の「この国は子どもたちに謝りましたか」という言葉を紹介。自分たちがこの国家に闘争してきたがゆえの「少数者」であり、その意義を受け止め、先人に学んで、自分も闘っていくと結んだ。中道さんは、何よりも日本の核武装を阻止する闘いとして、六ヶ所闘争を闘ってきたこと、大間原発建設を止めることは核武装を止めることだと喝破。NAZEN青森の闘いの方向性を提起した。

 休憩をはさんで全国のNAZENの仲間からの発言。NAZEN事務局次長の富田翔子さんは、青森の風景を「ものすごい美しさと厳しさ」と表現。東京では青年が“見えなくさせられている”現実、仲間が見えなくなったとき死に向かってしまう現実を示し、自分の怒りを解放すること、生きる団結をつくることが問われていると訴えた。そしてNAZENが若者を引きつけて来たのは、「絶対反対! ぶれない! 貫くこと! そして元気に! ひるまない!」ことであり、これからも頑張ると決意表明した。

 百万人署名運動・福島の長沢宏さん、宮城連帯ユニオンの青年、国労秋田闘争団の小玉忠憲さん、ス労自主の入江史郎委員長、8・6広島-8・9長崎反戦反核闘争全国統一実行委員会事務局長の三角忠さんが闘いの決意を表明。連帯あいさつでは、反核燃闘争を闘い続けてきた地元の3人の人士からアピールが行われた。
 青森の青年はカンパアピールで、知り合いの青年から初めて賛同金もらえた闘いの前進を誇り高く紹介。閉会あいさつは、青森市の“闘うお母さん”がこれからもできることをしっかりやっていくと宣言し、NAZEN青森結成集会は65人の結集で大成功のもとに終了した。(青森・S)

 

4月10日(火)
広島の下田さんから大量の寄付
昼食はケンチン汁 トロロ納豆
サンマ煮に
 普通は「前進」の読み合わせの日だが、新しいメンバー・スタッフがいるので、久々に、「街」の歴史の読み合わせ。
20年前の文章なので古いけど、読み合わせたが、1時間以上かけて3/1ぐらいしか進まなかった
「街」を作った理由』の前の最初の項の、全編は、こちらに
「街」の全体史の一部 ↓
2008年10月4日(土)
ワークショップ2008年・秋 西荻館()
------- 作業所について徹底的に話し合おう -------
ゲスト講演:赤羽隆一さん(“オープンスペース街”)
      「作業所を立ち上げた時の“街”、そして今」
           “街”は練馬区の作業所です

「堅く手を握れ」「君の手を握る」「その手を決して離すな」
『蟹工船』の作者、小林多喜二の獄中書簡に何度も何度も繰り返される表現であり、具体的な呼びかけです
あなたには、堅く手を握って決して離さない仲間がいますか?にしおぎ館ワークショップは今回で7回目です。

 「街」の歴史は、「後ろを振り返らずに、猪突猛進してきた15年間」でした。「街」はどこから来て・どこへ行こうとしているのかを改めて考える時間をいただきて感謝しています。今日は3人のリレー・トークというやり方で進めて行きたいと考えています。
①地域の時代 1993年 年表①~⑨をつくりましたが…1―2年おきにカメレオンのように生態をかえているので非常に分かりづらいと思います。「作業所について徹底的に話し合おう」という今日のサブ・テーマにあっているかと思いますが、「街」はどこから来て・どこへ行こうとしているのかについて、浅ーく・駆け足で話していきます。

 ただ一ついえることは「徹底的に地域にこだわってきた」「地域住民の団結・連帯の拠点」を作りたいと思いで試行錯誤してきた15年間だったなと思っています。それと、11本の短いビデオを入れて話を進めたいと思っています。
②練馬区・外に向かった時代 1994年
③共同作業所のスタート時代 1996年
④インターネットの時代 1998年
⑤「キーサン革命」の時代  1999年
⑥音楽と沖縄の時代 2000年
⑦政治の時代 2000年6月
⑧辺野古の時代 2004年
⑨労働運動の時代 2007年
ビデオ
① 差別まつり 1994 ⑥ ワシントン 2003.1
1994年10月差別について考える「差別まつり」 2003年1月 イラク攻撃 NO ワシントン50万人反戦集会
② 「ジュゴンの家」オープン 2000.10 ⑦ 渋谷ピースウォーク 2003.4
沖縄・名護「ジュゴンの家」 オープン その① 2003年4月 イラク反戦 渋谷ワールド・アクション
③ やんばる平和まつり 2000.12 ⑧ 海に座る/晋くん
2000年12月 名護・やんばる平和まつり 海に座る 晋くん
④ 満月まつり 2001.4 ⑨ 民主労総大会 2005.11
2001年4月 名護・満月まつり 2005年11月 ソウル民主労総 全国労働者大会
⑤ 医療観察法案 2001.5 ⑩ G8サミット粉砕闘争 2008.6
医療観察法案 粉砕 国会前行動
久良木さん おまけ 関町ピース・ウォーク
久良木さん 2003年5月16日 関町ピースウォーク

「街」を作る前、1992年10月練馬区の共同作業所「ほっとすぺーす関町」の職員になりました 
 所長の久良木さんのこと。久良木さんの紹介ビデオこの変なおじさんに影響されて、ずっとここまで来てしまいました
 職員初日、臨時の所長のクラキさんに「何をしたらいいんですか?」と聞いた時、「メンバーの話を聞いていなさい」と言われ、以来、職員の部屋にはほとんど居ないで、ずっとメンバーと雑談する毎日でした。雑談の中では本音が出ます。1月に「ほっとすぺーす関町」としては初めてのメンバーとの個人面談をしました。
1993年3月 「オープンスペース」とは、地域の人たちに開かれた場、という想いを込めてつけました。

ここからスタート 

「街」を作った理由ハネやん1993年春から連載開始)

 1、共同作業所における低賃金の問題
 自主運営のリサイクルショップ『オープンスペース街』は、共同作業所「ほっとすぺーす関町」のスタッフ3人、メンバー1人、地域の女性1人の5人を準備委員として、「ほっとすぺーす」運営委員会とは別個の形で設立された。作った動機とその後の経過を書くと、1月に入ってすぐに、「ほっとすぺーす関町」としては初めてのメンバーとの個人面談が行なわれた。そこでメンバーの多くの声として出たのが、作業工賃の圧倒的低さの問題でした。1と月間働いて、わずか数千円たらずの低賃金。これが共同作業所の名のもとにまかり通っている。

 内職の袋張りや軽作業という作業の内容と共に、こうした低賃金はほとんど刑務所における懲役者と同じ状況下に置かれているといってもいい。そして、こうした下請労働こそが日本経済のいつわりの「繁栄」を支えてきたし、現に支えていることを決して忘れてはならない。

 メンバーの一人がこう書いた。「下請作業というのは、その賃金の恐るべき低さ、納期などの面で、私達、精神障害者の人間としての尊厳を傷つけられることが多い」という文章は、その点を鋭く指摘している。まさに共同作業所の作業というものは、つねにそうした問題性をはらんでいることに無自覚であってはなるまい。

 このことは同時に、共同作業所が「医療」から「福祉」、「地域の中での受け皿づくり」という面で果たしてきた役割は大きい。それは作業所に与えられた医療からの「入口」としての側面においてである。しかし当時、一部のメンバーにとって作業所から「社会」への「出口」の形態を考える時期にそろそろきている(勿論、「入口」としての役割を放棄するということでは決してないし、それはそれで、現段階では重要な意義がある)。

 1月のメンバーとの個人面談で突きつけられたのは、実はこの課題であった。「工賃をもっとほしい」というメンバーの切実な声は、共同作業所の日常活動に汲々としていた未熟なスタッフに対して共同作業所からの「出口」を切り拓くことを要求したのである。

 一般就労への援助か、職親をさがすことか、「ほっとすぺーす関町」とは違った形で工賃的に比較的高い自主的事業を始めるか、それとも、まったく別の形態か。 

 2、当事者に対する差別と偏見
 『街』を作ろうと思った動機は、「精神障害者」(以下、当事者とする)の解放が共同作業所という枠内では不可能ではないかという疑問からだった。もし仮りに、「理想的な」作業所というものが実現できたとしても、それですべてが完結するものではないという想いを、勤め始めた当初から抱いていた。

 当事者に対する社会的な差別・偏見が温存されたままで、共同作業所が「良い共同作業所」として永遠に存続するような社会では、共同作業所は「第2の精神病院」と化してしまう。そうならないためには、当事者の人たちだけが変わればいいのでなく、本当の意味で変わらなければならないのは私たち「健常者」の側なのだ。事実、私自身、共同作業所の職員になるまでは、共同作業所の存在や、当事者の人たちが置かれてきた歴史や状況にほとんど無知だった。いや正直に書けば、マスコミの流す一方的で偏向した情報を無批判的に受け入れて、偏見をもっていたし、差別に加担していたといえる。

 「社会の人の障害者に対する偏見・蔑視」(明雄さん)、また、「精神障害者は怖い」という捏造が私たちの中に入り込む原因はどこにあるのか。それは、当事者の人たちと私たち「健常者」が、日常的にほとんど関わりをもたない点に由来する。

1、当事者の人たちが起こす事件がある度に、マスコミによる意図的としか言い様のないキャンペーンなどで、当事者に対する偏  見がつくられていく、
2、そうした偏見があるので、つきあいが難しくなり
3、そして、つきあいがないから、よけい偏見が助長され、
4、偏見が拡大される結果、つきあいが更に難しくなっていく。

こうした悪循環をなんとしても断ち切りたいという思いが『街』を作った第2の理由でした。

 『街』で地域の人たちと出会う。その出会いの中で、当事者の本当の姿を知っていく。そして偏見が徐々に氷解されていく。いや、その過程を通して、私たち自身の身についていた「差別・偏見」という悪しき汚れをぬぐいとることができるのではないかと考えた。そうした『街』での出会いと、私たちの側に「厳しい自己点検、自己変革」(久保ヤン)という蓄積があってはじめて、差別も抑圧も偏見もない新しい『共生社会』の基礎がつくられるのであり、その社会にふさわしい内容をつくりだしていくことが可能となる。それに向けた第1歩として『街』がつくられた。差別と偏見を日常的なふれあいと交流を通して、『街』が目指している「障害のある人も・ない人も支えあって共に生きる街」づくりを前進させたいと考えた。

 3、当事者の住居問題
 第3の理由は、当事者の住居問題です。
現在、日本では150万人の人が精神病院に通院し、35万人が入院していると言われている。練馬では約7000人の人が通院し、1900人以上が入院している。この35万人の退院が今日、緊急課題となっている。そのためには、退院後の生活の大前提であり、住居・アパート若しくは、世話人や医者などのケア付きの共同住居・グループホームの大量の創設が必要です。しかし、アパートを借りることは非常に困難と言わなければなりません。入院しているということを隠さなければアパートを貸してくれないのが実情でした。

 この35万人の退院ということを考えた場合、「35万人体制に改革の矛先を向けないままの『受け皿』論には、うさんくささが限りなくつきまとう」 現在の比較的症状の「軽い」人たちだけを共同作業所などに通ってもらうことで、事足りとしてはなるまい。

 今なお、多くの当事者たちが犯罪を犯したわけでもないのに、「閉鎖病棟の鉄格子の中に収容されているという惨状、この悲惨な人権侵害」(久良木さん)を決して忘れてはならない。

 入院している人は、刑事被告人や懲役者よりもひどい状況下に置かれている。刑事被告人は、弁護士接見という形で面会が認められている。また、懲役者は定期刑としてその期間さえつとめれば「娑婆」に出ることができる。これは、罪刑法定主義による「懲役者の人権」を守るものである。

 しかし、長期入院させられている人たちには、この『権利』さえ許されていない。そこでは病院の医師たちが裁判官や検察官を代行する。いや、そこでは被告の人権を守るべき弁護人の同席も許さない「欠席裁判」で、すべてが決定されて行く。正当な異議申立さえもすべて「病状」のせいにされて、保護室に入れられてしまう。これで法治国家といえるのだろうか! 暗黒裁判そのものです。まさにこれは、人権侵害そのものであり、「国家賠償の問題」(久良木さん)です。

 ともかく、あらゆる手段で長期入院の人たちを受け入れる住居を着実に作っていくこと。それと共に、35万人という大量の退院を実現していくためには、徐々に変えていく、一つ一つ積み重ねて行くという発想では限界がある。「ともかく退院という発想」(久良木さん)が不可欠です。

 また、「受け皿を地域に幾つか作る」ことで終わるのではなく、「地域を丸ごと受け皿化する」という中でしか、本当の解決方法はないのではないか。そのためには、『街』における地域の人たちとの熱い出会いを通して、その人たちとの固い連携と協力の下、「支えあい共に生きる街」づくりに向けて着実に前進していくことを夢想しました。 

 地域の人たちの立上がり
 私は、いまだ見ぬ地域の人々との結合の可能性に賭けたといっていい。しかし開店の準備段階で「店の持続性」に対する疑問が提起された。「本当にやって行けるのだろうか?」と。しかし、私はそれに関してまったく楽天的であった。

 確かに当時の主体的力量を考えた場合、持続は困難だった。だが、私の中には地域の人々が必ず援助してくれるという「確信」があった。それは私の「人間は変わりうるもの」「民衆は必ず立ち上がる」という不動の確信に由来する。そして、地域の人たちが陸続として立ち上がっていくイメージの中に、『街』が成功する条件を見ていたといえる。そのイメージ、言い換えれば、そうした想像力(現実を変革する内容を基礎とする)に依拠することによって『街』は開店以前からすでに成功する条件を獲得していたといえる。また、そうした想像力とその実践なしには、今日いわれている「ノーマライゼーション」(私流にいえば、「支えあい共に生きる街」)は、そもそも絵に描いた餅にすぎない。

 「振り返ってみると……私の中にあったのは……個人の生をがんじがらめにしていく地域社会の否定的イメージ」と久保やんが以前の自分を振り返っていみじくも書いていたが、実際こうした地域と地域の人々に対する否定的イメージに捉われる傾向が強いのではないだろうか。ここからは、どうせ失敗する、やっても無駄ということしか出てこない。それはどうしてなのか? 歴史を正しく学んでいない、としか言いようがない。

 5月の連休に、『街』のみんなで奥秩父へキャンプに行ってきた。そしてバンガローで一泊した翌日、「秩父困民党」巡りをした。1884年、秩父困民党は秩父の谷間から武装蜂起し、郡役所を占拠して、「無政の郷」を作り出した。そして、「自由自治元年」という年号を制定する。「明治維新」前後の民衆運動史を我流でかじったことのある私は、ここに一度来てみたかった。

 よく「日本人は従順な民族」といわれているが、100年前の人たちは飛びっきり元気印だった。秩父蜂起は、自由民権運動の最後にして最高の形態である。11月1日の夜、手に手に武器を持った農民3000が椋神社に結集した。今回、椋神社には誰も集まっていなかったが、百数十年前の農民たちの喚声が今にも聞こえて来るようだった。当時の民衆は、まだまだ歴史を動かす主人公としての気概と原動力をもっていた。「20世紀末の人たちよ頑張れ」そう言われた気がした。

 つまり人類史を振り返ってみても、「地域の否定的なイメージ」は殆ど出てこない。それよりも、いつの時代においても民衆は元気なのである。逆にいうと、「民衆は元気」と思えないのは、「民衆が元気だと困る」「元気であってほしくない」という権力者の論理に絡めとられている。

 『街』開店以降の2か月の経験は、「民衆は元気」ということを証明した2か月であった。「ほっとすぺーす関町」と『街』、ボランティアと地域の人たちとの関係がさやかながら有機的に結合され始めた日々でした。詳細は省くが、ともかく、『街』開店以前の「ほっとすぺーす関町」の状況に比べて、開店後の活性化は、めざましいものがある。そうした前進を根底で支えているのは、32名の『街』のボランティア・スタッフでした。いくら『街』の設立スタッフの思い入れが強いものであろうと、こうしたボランティア・スタッフの人たちの援助なしには、『街』は存続し、発展することはできなかった。

 トリエステの教訓
 羽仁五郎は『都市の論理』の中でこう書いている。「そこに地域社会があったか、なかったということより、そこに革命的性質があったか、なかったかということによって精神障害者の解放か、拘束か、ということが決定された」と。

 つまり「地域」ということを考えた場合、「地域一般」というものが問われているのではない。これまでは「行政に多くを依存しずぎてきた。住民による直接参加と自らの地域社会づくり」という傾向が強かったが、やはり行政の側からの(上からの)地域社会づくりに依存しないで、地域社会の主体である地域住民を中心とする「下からの」地域づくりというものこそが、羽仁五郎のいう「先進的な内容をもった地域」づくりを進めていく上で大切なことだと思った。

 イタリアでは、その歴史性を利用し、地域との結びつきを強める中で精神医療改革を社会改革の一環としてすすめていった。トリエステのバザーリア医師は、従来の精神医療をのりこえる道を提起する。それは医師・「患者」関係を根本的にひっくり返すことである。当事者の「病気ではなく、苦悩の問題に共同してかかわる時、彼と私との関係、彼と他者との関係も変化してきます。そこから抑圧への願望もなくなり、現実の問題が出てくる。自らの問題が心理学的な問題などではなく、社会的、それゆえに政治的な問題であることを学びます」と。そして、そこから医師と「患者」の関係だけでなく、入院制度の問題、制度と住民一般との全く新しい関係を展開していくことになる。

 バザーリアはトリエステの解体に際してこう語った。「病院の壁が残っているかどうかは問題ではありません。私たちは壁の内外を変えることによって、施設の論理を破壊するのです」と。

 地域との結合
 イタリアの北部にあるパルマ県の「草の根精神医療」は、1969年の学生たちによるコロルノ精神病院の占拠によって開始の鐘を告げ知らせた。35日間にわたる占拠闘争の中でパルマ全体が活性化していく。「何百回と集会をもった。工場でも、公民館でも、あちこちの町や村でも。あらゆる人がそれに参加した。労働者も、農民も、知識人も、そして患者自身も」

 またこの占拠闘争には、多くの患者さんが参加した。病院での会議で、彼らの多くが発言し、自らの要求(思想の自由、自己決定権など)を伝えた。このように多くの地域住民の参加の中で「草の根精神医療」がすすめられたパルマとは、いかなる地域だったのか? この精神医療改革の進展をみるとき、パルマの歴史を抜きには語れない。

 1922年、ムッソリーニの「ローマ行進」に対して、ファシストを追放しバリケードを作って抵抗したり、1943~45年にはナチスの占領軍に対してパルチザンを結成して闘った。北イタリアのいたる所で労働運動の歴史があり、こうしたファシズムとの闘いと分かちがたく結びついている。冒頭で書いたように「精神医療改革を社会改革の一環」としてすすめていく根拠がここにある。

 精神医療改革の闘いが、多数の住民の参加のもとで展開される所はどこでも、こうした労働者組織が強く根を張っている。当事者の社会参加を実現しようとするとき、こうしたグループの協力があった。それは労組や協同組合、社共の分会のほかに、文化、歌、狩り、釣りのクラブにいたるまでの各組織網がフルに動員されたのである。

 ともかく『街』を基軸とした地域との関わりの中で切り開いてきた5ケ月間の成果と教訓を生かしきり、さらなる飛躍に向けて前進していきたいと思う。「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」

4、『街』の2年間の実践から
 早いものでオープンスペース『街』は開店2周年を迎える。同時に私が「ほっとすぺーす関町」を辞めてから1年が経った。簡単に、この1年間を振り返ってみたい。低賃金の改善、偏見・差別の問題、生活支援・住居問題、地域との関わり、以上の4点が『街』を開店した主な理由であった。

 作業所から地域へ
 以上4点は、社会=地域との関係性の変革とまとめることができる。それは、従来の当事者・作業所と地域との「閉ざされた関係」を「開かれた関係」へ変えることである。しかし「地域に開かれた作業所・場」を目指すというが、実際この点が最も困難である。

 「つくりっこの家クラブハウス」発行の『つくりっこだより』の中にこういう文章がのっていた。「地域で作業所を開きたいと地域の中に作業所をつくっても、地域とのかかわりがとぼしく結果的に閉鎖的な場になってしまうことが、ままある」と窪田氏(クボタクリニック)の話を引用し「そういう状況というのは、ありがちなこと」と筆者は書いている。

 このことは多くの作業所の設立過程にも共通する課題でもある。それは、当事者の人たちの置かれている厳しい状況(共同作業所の設立に対して住民の反対運動が起きるなど)に規定されて、地域の外部から、ある意味で強制着陸させる形で作業所を設立せざろうえなかったことに関連している。つまり作業所設立の出発点が、当事者の家族たちを中心とする地域を巻き込んだ住民運動として展開してこなかった(いや、できない困難性があった)点に由来している。

 言い換えると、多くの作業所があらかじめ「閉ざされた場」として出発せざるをえなかったといえるだろう。勿論、別の形で設立された作業所もある。「つくりっこだより」の筆者は、「クラブハウスは作業所でありながら地域から生まれたという類いまれな存在」と書いている。まさにそれは、「つくりっこの家クラブハウス」を設立する以前の十余年間の着実で豊富な活動に裏打ちされた言葉そのものである。

 偏見・差別の問題 
 しかし『街』は、地域運動の蓄積が全くないという所から出発したのだから、いまさらジタバタしたって始まらない。問題は「閉鎖的な場」をいかに「地域に開かれた作業所・場」に変えて行くのかという点にあった。紙面の都合上結論だけ書くと、『街』開店以来の1年間を振り返ってみると「まあ、いい線を行ってるんじゃないか!」と思っている。『街』の1年間の方針と実践は、差別と偏見という課題を正面から掲げて地域の中へ大胆に飛び込むことであった。

 当事者に対する偏見が作られていく構造を、「当事者の人たち」と「地域の人たち」が実際にふれあい・交流することを通して突き崩して行く方法をとった。それも出来るだけ大量の地域の人々との交流を目指した。

 「『街』で地域の人たちと出会う。その出会いの中で、当事者の本当の姿を知っていく。そして偏見が徐々に氷解されていく。いや、その過程を通して私たち自身の身についていた『差別と偏見』という悪しき汚れをぬぐいとることができるだろう」(『街』で思うこと②)と以前に書いた。

 昨年、『街』のお客さんから、「ほっとすぺーす関町」に4件の仕事依頼があった。Aさん、Bさんは共に『街』が開店した当初からのお客さんで、『街』の活動をつぶさに見て来た人たちである。Aさん、Bさんは『街』へ働きに来る「ほっとすぺーす」のメンバーたちとの日常的な交流を一年間、蓄積してきたともいえる。その蓄積の中から信頼関係が生まれ、仕事の依頼へと繋がったのである。そして、そうした信頼関係を生みだした原動力は「ほっとすぺーす」のメンバーや当事者一人ひとりの豊かな人間性そのものにほかならない。

 しかし、こうした信頼関係が生まれたことだけで単純に喜んではいられない。『街ニュース』18号でH氏はこう書いている。

 「『精神障害者』の地域生活の現実は厳しく偏見や差別は変わっていません。『精神障害者』のみならず『障害者』が地域で生きるということの辛さは、死活のかかった問題としてあります」と、H氏が指摘しているように「現実は厳しく、偏見や差別は変わっていない」と言わざろうえない。実はこの仕事依頼の過程で、ある差別事件が発生した。Aさんの仕事依頼の中で、Aさんの外部の人から「精神障害者」に対する差別的な発言があった。「ほっとすぺーす関町」や『街』を一歩出ると偏見と差別はまだ色濃く残っている。ただ一言つけ加えると、そうした差別的な発言に対して断固として立ち向かったのがAさんその人であった。「間違っているのは当事者の人でなく、アナタの方だ!」という立場を最後まで貫きえたことの中に、1年前のAさんに比べて大きなな変革がある。まさに、そうした立場に立ちえたのはこの一年間、『街』において当事者の人たちとふれあい・交流してきたことの結果といえるであろう。

地域の底辺から
 『街』における1年間の活動を通して、私自身のスタンスが変化してきた。最初は「ほっとすぺーす」からだけの視点で地域のことを考えていた。しかし『街』において、「ほっとすぺーす関町」のメンバーの人たちだけではなく、関町で暮らしている他の共同作業所・病院のデイケアに通うメンバーの人たち、作業所へ通えない人たちなど100人近い当事者と出会うことができた。

 そして「街」が「オープンスペース」(地域の人たちに開かれた場)であるがゆえに、当事者だけでなく他の様々な「障害者」を持った人たち、一人暮らしの高齢者、在日アジア人外国人労働者やその他の人たちと出会った。そして彼らがこの地域社会の中で、生きる上での困難性に直面してること知らされた。

 それゆえ『街』は、地域に開かれた場として作られたことで、「よろず相談の場」になった。しかし開店当初、この「オープンスペース」の思いは、抽象的なスローガンにすぎなかった。それが、この1年間の実践の中で徐々にではあるが具体的なものになりつつある。

 そのことに踏まえて『街』の今後の方向性は、作業所から地域のことをを考え始めるのでなく、地域の底辺から、地域の一部分(一構成要素)としての「ほっとすぺーす関町」や慈雲堂病院、また関町生活実習所や、さらに他の「障害」をもっている人たち、高齢の「障害者」の方々、在日アジア人の皆さん、その他、今の社会=地域が生きづらいと思っている人たちと手を結び、今の生きづらい「町」を「障害」のある人も・ない人も支えあって共に生きる「街」へと、さらに前進していきたいと考えています。


「関町ケアネットワーク」が出来た経緯

病院のケースワーカー、作業療法士、共同作業所の職員、患者会の人、ロック・ミュージシャン、いろいろな人たちがあなたの悩みに耳を傾けてくれます
また、毎日12時から20時まで、憩いの場・相談の場所として部屋でくつろげます

電話相談は、無料。部屋の利用料は、1ケ月 1000円、1回 200円


「関町ケアネットワーク」が出来た経緯

「街ニュース」27号(1994年5月10日発行)


 5月の連休のさなかに、Yさんが自らの手で尊い命を断たれました。『街』の関係者一同は、その突然の悲報を断腸の思いで受け止めました。関町地区において精神保健にかかわってきた一員として「私たちにもっと力があったら、彼が死を選ばずに済んだのではないか!」という痛苦の念でいっぱいです。
           
Yさんの死を、彼の個人的な問題に帰しては絶対になりません。彼の死は、社会全体の問題なのです。それは「精神障害」を持った人たち が今の社会の中で置かれている厳しい状況の反映であり、地域社会の中で安心感・充実感を持って生きられないことに対する告発です。また、関町地区における地域ケア態勢の不十分さを追及する叫び声でもあります。
          
私たちはYさんの死を、私たち一人ひとりの問題としてシッカリと受け止めたいと考えます。『街』関係者一同はこのYさんの命を賭けた叫びに応えるためも、また第二・第三のYさんを出さないためにも、憩いと相談の場「関町ネットワーク」を作ることを決めました。安心して憩える場、困った時にいつでも気軽に出向ける場づくりを目指します。皆様のご支援とご協力をお願いいたします!

呼びかけ人・赤羽 隆一


「関町ケアネットワーク」オープン!

「街ニュース」第28号(1994年5月19日発行)   

「心の病」を持った人たちの憩いと相談の場・関町ケアネットワーク
オープン時間は、
電話相談は、PM6:00~10:00
憩いの場は、PM2:00~ 9:00(月~土)
日曜日は『街』へどうぞ!


先日、リサイクルショップ「オープンスペース街」の入口から、石神井川をはさんで10数メートルの距離にあるアパートの1室を借りる契約をしました。日当たりの良い部屋で、買ったのは電話債権だけです。それ以外の豪華ソファー、仮眠用ベッド、ステレオなどの家具は全部「街」からきました。

6畳・4畳半・キッキン・バス・トイレ付で家賃は79.000円。これだけの家賃+維持費を今後払いつづけられるのか、先を考えると不安ですが、「案ずるよりうむはやすし」。本当に必要なものだとしたら必ず集まることでしょう。

相談員は、長年、児童相談所に勤務していた臨床心理士、「いのちの電話」相談員の講習を受けている人、共同作業所の元職員、『街』のお客さんの有志、病院の元ケースワーカーなどと共に、「関町ケアネットワーク」の開設を知り、相談員としての協力を申し出てくれた数名の当事者の人たちが担当する予定です。また練馬や東京の各地で相談所を開いている民間団体との協力・連携も予定しています。   

『街』ニュース27号を読んで、賛同・共感の電話や未知の人からの相談の電話が来ています。    
                  
5/18、仮オープンに9人が参加して盛り上がりました。

  5 月 2 1 日 オ ー プ ン ! 

「関町ケアネットワーク」は、従来の『街』では不十分だった、憩いと相談の場としての機能を充実させる場づくりを目指します。

177  関町北4-6-4,若宮荘102 号室。電話3929-8680 

★5/21(土)、憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」がオープンします。当事者が安心してすごせる場、困った時にいつでも気軽に出向ける場、健康的な側面をお互いに認め合いそれを発揮しあえる場づくりの中で、「支えあい共に生きる街」づくりに向けて更に前進していきたいと考えています。

その内容は、悩みの電話相談、ハンディを持った人たちの憩いの場などを考えています。           
会員募集中。1ケ月1口1000円。「関町ケアネットワーク」の維持費(約10万円弱)はすべて寄付金でまかなわれます。是非、会員になって下さい! 


関町ケアネットワークの相談員を務めて 府川 政人
 1996年2月、新たに「オープンスペース街」(リサイクルショップ「街」及び「関町ケアネットワーク」)運営委員会が発足し、同年4月からはリサイクルショップ「街」が正式に共同作業所として認可されました。

 もう一方の「関町ケアネットワーク」は、行政からの助成対象ではありませんが、心の悩みのある人の憩いと相談の場として関町地域に根付いていました。この「関町ケアネットワーク」を更に機能させるべく、運営委員が夜6時から8時まで電話相談員を務める態勢が同年5月からとられてきました。私も毎週金曜日に電話相談員として詰めるようになったものの、当初は半ば義務感からでした。やがて金曜日が来るのが待ち遠しくなるまでに、さほど時間は要しませんでした。

 私にとって「関町ケアネットワーク」の魅力は、まず地域の人たちと出会えることです。
(*編者注。「地域の人たち」とは、病院や保健所のデイケアに通っている人、共同作業所に通っている人たちだけでなく、そうした施設に関わりがない、関町地域で暮らしている当事者=概算で450人ほどと想定=が気軽に行ける場として形作られ、現在でも「オープンスペース街」のメンバー以外の人たちの利用が多い)

 地域に暮らす人たちと、余計な肩書き抜きに知り合い、語り合うことは、日頃病院の中で「職員」対「患者」というある種の抑圧的な関係に埋没している私にとって大変新鮮なことだったのです(*注。筆者の仕事は、デイケアの作業療法士)。
様々な個性を持つ人たちと出会い、同じ地域に暮らす者同士、本音で語り合えたことは、ある意味で私にとっての財産になっています。

 さらに、地域の精神「障害」者(以下、当事者と略す)の生の声に触れることにより、私自身の立場を問われることがしばしばありました。当事者が普段どんなことに悩み、どんな思いで暮らしているのか、また差別を受けた体験などといったことは病院の中にいるだけでは知る由もないことでした。「オープンスペース街」の理念である「『障害』のある人も・ない人も支えあい、共に生きられる街づくり」を実現していくためにも、まず当事者の声から学ぶという姿勢が不可欠だと実感しました。と同時に、徹底的に当事者の側に立つ必要性も。

 「関町ケアネットワーク」は、このような憩いの場である一方、地域の当事者からの電話相談を受ける場でもあります。相談内容は、他愛もない世間話や日常生活の細々としたこと、病状について、就労について、年金や生活保護など社会福祉の諸制度について等々、多岐に渡っています。
これらの相談に十分答えられているかどうか自問する毎日ですが、一人で悶々と悩むよりは、人に打ち明けるだけで気が楽になったと言ってくれる当事者もいて、何がしかの役には立っているのかと思っています。中には、電話がないと気の毒だからと、わざわざ相談内容を考え、わざと深刻な声で「サクラ」の電話をくれる当事者もいて、逆に私が励まされてしまうこともあるほどです。

 何はともあれ、一度「関町ケアネットワーク」にお越しください。また心の悩みのある方は、夜6時から8時の間にお気軽に電話をかけてみてください。


地方で暮らす当事者の研修・見学のための宿泊の場
「ステイ街」誕生

 かつて、「街」のホームページに『心の広場』という掲示板がありました。そこでは地方で暮らしている当事者の人の生の声が、毎日毎日、書き込まれていました。「近くに病院がない」「病院に通っていない」など、共同作業所や病院・保健所のデイケアなどの存在すら知らないで、孤独の中で暮らしています。「ステイ街」は、そうした地方の人たちの、留学・研修・見学の時の宿泊の場として作りました。また、退院や自立つ生活に向けての「ショート・ステイ」としても利用できますので、お気軽に申し出てくださいね。*現在は、「ハウス街」という一戸建てにかわつて運営されています。

<連絡先>「オープンスペース街」 03-3928-1378

「ステイ街」に泊まって 西 沓子
週刊「街ニュース」281号

 リサイクルショップの共同作業所「オープンスペース街」の真向かいのマンション1階、ここに関係者、当事者が研修や社会復帰のために宿泊できるバス付き2Kの「ステイ街」がある。私はくしくも「ステイ街」宿泊者第1号となった。名誉で-す。

 ステイの寝室側から道路をはさんでリサイクルショップ「オープンスペース街」の入口が、ソファ-とテレビのある居間からは武蔵関駅の階段が見える。当事者たちが交替で24時間相談を受けている「関町ケアネットワーク」はステイのキッチン側から川一つはさんで向かい側にある。

 実に人通りの多い庶民的な町のどまんなかに「リサイクルショップ街」「ステイ街」「ケアネットワ-ク」がある。たくさんの人が「街」の前で足を止める。中に入ってあれこれ品物を吟味する人も途絶えることがない。「街」と名付けた人の思いが伝わってくる。そしてそのイメ-ジ通りなのにまず感激した。

 私は6月25日の「久良木さんをしのぶ会」に出席し「ステイ街」に泊めていただいた。久良木さんを失ったことの悲しみと共に、もっと積極的に支援できなかったことに対する悔恨で苦しい思いで上京して来たがここの仲間(仲間といわせてくださいね)と会ったことですっかり元気になりました。

 いつ着くとも知らせてなかったのに武蔵関駅に迎えに来てくれた安西さん。-安西さんには丸二泊すっかりお世話になってしまった。リサイクルショップ街のメンバ-も「西さん今日は日当がもらえますね」と仲間にいれてくれた。

 スタッフの則子さん、富田さん。二人の明るさとパワ-には惚れ惚れしてしまう。圧巻は「チャンプルー街」-。しのぶ会の後、思いのつきぬ者がチャンプルに集う-表には本日貸し切りの札が-午前三時を過ぎても宴は続く。

 集う面々のエネルギ-もさることながら、ハネやんのバイタリティ-には感動です。眠る時間があるのか心配すると「世の中を変えたいんですよ」あついものが胸にしみます。翌日も安西さんとチャンプル-へ行って又々感動!

 子供連れの家族、知的障害者を連れたお母さん、片隅で静かに飲んでいる社長さん、いつも落ち込んでいる(?)先生、皆、すっかりうちとけて……地域の憩いの場なんですね。

 それに辻さんのギタ-とうた。おいしいチャンプル-と泡盛、なんとぜいたくなお店なんでしょう。そして辻さんにもありがとう。「西さん、カッコいいですね」なんてお世辞まで下さって……(今、おなかに力を入れて歩いています)。人を元気づける言葉を使わなくてはいけないって教えて下さった。

 サトコさん、二晩ステイに付き合って下さってありがとう。豊かな人生とは何なのか改めて考えさせられました。ユニ-クでやさしい金杉先生、久良木さんのビデオを何度も見ているので、旧知の仲かと錯覚してしまって失礼した青木アナウンサ-(今「再婚トランプ」読んでます-)。可愛らしい看護婦さんのハンダサン。芸術家って感じのカウンセラーのニラサワサン。真面目な二宮さん。一晩中ユリちゃんと議論していましたね。

 ミ-ンナ、ミ-ンナ、出会った人達、ミ-ンナにお礼をいいます。いつの日か北九州と「街」の皆さんと交流会ができたらいいなと本気で考えています。それには北九州のメンバ-に少し元気になってもらわなくては。いやいや「街」の皆に会ったら元気になれるのかもしれない……。

 本当に皆さんありがとう。「ステイ街」での二泊は私の心の糧になりました。

 「ステイ宿泊の感想文を書いて」といわれたのでノ-トさがしましたが、部屋にはなかったようなので帰ってすぐ書くつもりでいたのに…遅くなって申し訳ありません。
本当にすてきな出会いでした。

 「街」のメンバ-とも、安西さんとも、出会った皆にありがとう。ただありがとうです。皆さんと共に過ごした時間はとても幸せでした。又、日常の時間に追われる生活に戻りましたがいつも暖かく残っています。

 何といっても赤羽さんペア-の“思い”と“行動力”には言葉がありません。
“いいもの”“大切なもの”そして“すごいもの”を見させていただいたそんな気がしています。いいたいことたくさんあるのですが、今うまくまとめられません。またの機会に……。

 今年の夏は猛暑になりそう。どうぞくれぐれもおからだだけは気をつけて下さいね。>

 たまには、弱音を吐いて休んで下さいよ。人に与えるばかりでなく、たまには人に迷惑をかけることも大切です。皆様によろしくお伝え下さい。
まだ誰にもお礼状を書けなくて、又お会いできる日を楽しみにしています。

 ”街”に送りたいもの、たくさんあるのですが、整理できなくて遅くなって居ます。ごめんなさい。
             西さんは九州の人です。久良木さんが「日本全国・出会いの旅」で九州滞在中に、西さんのお宅でお世話になっていました。


精神保健改革・精神障害者の解放のために

久良木さん「全国・出会いの旅」へ出発!
「街」の麟太郎とマック母 ↑
 「よう、マック、あばよ」   「街ニュース」170号(1996年9月9日)
 
 マックとの付き合いが始まったのは8月初めである。あっという間にひと月が経ってしまった。還暦をとうの昔に迎えたというのに、こんな若い女性としとねを共にしようとは、夢か現か幻か。      

 マックの一日は、早出のハマちゃんを迎えるところから始まる。追っかけるように現れるリカちゃんを二階の休憩室へと先導し、ミキちゃんが赤ちゃんを乳児院に預けて足早にやってくると尻尾をちぎれんばかりに振って歓迎する。次々と

 出勤するメンバーやスタッフ一人ひとりに喜びを表し、迎えられた人々もマックに声をかけ笑顔を向ける。同じ命あるものとして心が通い安らぎを覚え、しかもお互いにさほど負担とならない関係、そこが実にいい。  

 作業所のメンバーやスタッフ、そしてリサイクル品を求めて来店するお客さんだけではない。店とは目と鼻の先にある駅前で、ベンチに座って人通りをぼんやり眺めていると、通りがかりの人達が、幼な子から若者、年配の人にいたるまでマックに声をかけてくれる。仕事帰りの人達がマックの姿に目をとめた時、疲れのにじんだ顔に一瞬精気が蘇り、ふっと安堵の顔を浮かべる。マックが“街”や地域の人々にとって、これほどかけがえのない存在になっているとは、まるでしらなかった。                       ごめんよ、マック。 

 人類はマックのはるか昔のご先祖の頃からよきパートナーとしての付き合いを始め、最近では“アニマル・セラピー”としての役割が日本でも注目されてきた。しかしマックの存在は、心病める人々にとって、また格別の意味を持っている。昔ニーチェという、おいちゃんがいて「諸君犬を見たまえ」と言い残した。マックは、聞いたことがあるかな。

 犬は昨日のことをくやんだり、明日のことをくよくよ心配したりはしない。きょう生きることに精一杯だ。そして他の犬にどう見られているかなど、およそ気にする気配はない。人間も少しは見習えというわけだ。日本の偉い坊さんも同じようなことを言っている。

 人間はだれでも狂気を抱えて生きている。それがふくらんだとき病いとなるんだが、その境い目は、いまここに生きる実感を見失っていないかどうか、そのへんにあるようだ。他人との関わりの中で感じる不満や不安が、過去・未来と行きつ戻りつしながら肥大化する。次第に現実感を失ったとき、不眠や妄想、幻聴などに悩まされる。こりゃ、マック聞いてるか。

 リサイクルショップ“街”が共同作業所になったのはこの4月で、まだ半年も経っていない。解決すべき課題はいろいろあるようだが、メンバーにとってすばらしい作業所となっているのに驚いた。個性豊かなメンバーが、実にうまく作業所を利用している。アカギくんは昼食作りに腕をふるい、ナベちゃんはリサイクル品の運搬に精を出す。時々姿を見せるオカサーファーのカワサキくんは本棚整理の魔術師だ。とびっきり感性豊かなミッちゃんとユリちゃん、いつも笑みを絶やさぬオイマツさんはお客サンが丹念にかき回してくれた衣類の山を手際よく折りたたむ。人生経験豊かなトミタさんはメンバーにとって心強い話し相手で、パーカッション(打楽器)の名手ムラマツさんともども、そのたくましい腕力は家具や電化製品を移動するのに欠かせない。神出鬼没の(他の福祉作業所に通っている)ミヤちゃんは商店街の人気者で、祭りや大売出しなど地域の最新情報をせっせと運ぶ。好奇心旺盛なイデさんは、人の話を聞くのが実にうまい。そしてマックを毎日散歩に連れ出し、食事に気を使っているのはミヤウチさんだ。

 聞くところによると、メンバーの通所率は平均70%。ほとんどの人が病院の外来やクリニックに通っているが、一人旅に出かけたり、別のアルバイトに挑戦したり、次第に自分の暮らしの幅を広げているようだ。そして体調がかんばしくないときは気がねなく休む。「街」はメンバーにとって「自分の都合に合わせて利用する場所」であり、「通わなければならない場所」ではない。それでいて、いや、それだからこそ都内の作業所でも有数の高い通所率を示している。そしてマックの通所率は100 %。 

 所長のノリコさん、ナオコさん、クーちゃん、“街”を切り盛りしているスタッフがこれまたすごい。天性の素直さなのだろうか、そろいもそろって三人とも、メンバーや回りの人達の話にじっくり耳を傾け、よく学ぶ。学ぶだけではない、よく遊ぶ。そして手に余るものについては、あっさり諦めるいさぎよさ。かくしてしなやかに、したたかに作業所を軌道に乗せ、メンバーにとって何でも話せる存在となっている。

中でも流れを見つめながらじっと待つノリコさん、多少のしぶきにはビクともせず、じっと待つ。メンバーやスタッフの可能性、秘めた活力を信頼しきっているからこそなしうるのだろう。うんマックもそう思うか。

 休憩のひととき、ボランティアの方達とお茶を飲みおやつをいただいていると50年前の光景が鮮やかに蘇る。昔、日本の精神障害者は1900年に制定された「精神病者監護法」のもとで、悲惨な境遇に置かれていた。家族が自宅で監置することを義務づけられていたからである。近所のおにいちゃんは、屋敷の日の当たらない座敷牢に閉じ込められ、少し離れたところに住むおねえちゃんは裏庭にあるトリ小屋のような囲いの中に閉じ込められていた。 

 日本が戦争に敗れ、戦後の混乱期で警察の目が行き届かなくなったとき、おにいちゃんやおねえちゃんを家族がそっと外に出しはじめた。最初は遠まきに見ていた近所の子どもたちも、慣れるのに時間はかからなかった。ひと月もしないうちに、おねえちゃんが意味不明の歌を歌いながら村中を歩くのについて回ったり、おにいちゃんといっしょに裏山でシラサギの卵を取るのに夢中になったりした。 

  近所のおばあちゃんが、縁側で針仕事をしながら、おにいちゃんやおねえちゃんにおやつをすすめる。とりたてて会話がはずむわけではないが、おだやかな心休まるひと時、これこそ究極のケアなのかもしれない。しかし、おにいちゃんやおねえちゃんの幸せは永続きしなかった。1950年に「精神衛生法」が施行され、やがて少し離れた丘の上に立つ民間精神病院へ収容された。その後、二人の姿を見た人はだれもいない。    うん、マックどうした。

 “リサイクルショップ街”は単なる作業所ではない。地域の人々が行き交うオープンスペースである。“街”の入口から呼び掛ければ聞こえる距離に“関町ケアネットワーク”がある。“街”のメンバーの休憩室と物置を兼ねているが、ここも地域の人々に開かれた「たまり場」となっている。窓のすぐ下を流れる石神井川の川面に街の明りが映えるころになると、病院勤務を終えたフカワさん、サガさんが日替りで現れる。訪れた人々の話しを聞き、電話口で相談にのるためだ。

 きわめつきは、“リサイクルショップ街”から歩いて3分、西武新宿線南口商店街にある沖縄料理店・“チャンプルー街”

である。バンダナが似合うおやっさん、それがハネやんだ。入り口の階段に行列ができることはめったにないが、それでも開店して日が浅いというのに老若男女で賑わう。店内には沖縄からの便りや、イベントの案内が所狭しと張られ、レジのわきには“街”の新聞や各地の作業所のニュースが置かれている。  
 毎日曜日、店の休みを利用して開かれる“サンデー夕食会”はすっかり定着した。いつも20人を越す賑わいで、“街”のメンバーだけでなく地域に住む心病める人達、心優しき人達にとってだいじな集いとなっている。     

 “リサイクルショップ街”を軸に、“関町ケアネットワーク”、“チャンプルー街”の営みは、いま精神障害者にとって必要な地域ケアは何かを鮮明に示している。この営みの中から、マキノさん達の“練馬コンシューマーズクラブ(NCC)”という当事者のグループも誕生した。

 いまハネやんは“チャンプルー街”という地域の人々の交差点にどっしり腰を据えて地域を見つめ、パソコンも駆使してメッセージを発信しつづけている。共同住居という最も大きなテーマに取り組む日も、そう遠くはないだろう。ありゃマック、寝ちまった。

 マックとのお別れの日がやってきた。東京練馬は武蔵関の街を離れ、いよいよ西へ向けて立つ。おかげですっかり充電できた。何年かかるか定かでなく、何を求めて歩くのか自分でも判然としない。昨日のことや明日のことを、くよくよ考えたりするゆとりなど、望むべくもない放浪の旅である。であればこそ、病める心をいやしてくれるだろうと願うばかりである。

 マックを連れて行こうかと、何度か悩んだ。しかし、四国の砂浜で海を眺めながらグーグー腹をならしている姿とか、能登半島あたりの駅前で空き缶を前にして坐り込んでいる様子とか、どういうわけか、そういうイメージしかわいてこない。それじゃマックがあまりにも可哀想だし、だいいち“街”の人たちに叱られちまう。だから連れて行くのはあきらめた。そろそろマックもいい男を見つけろ。その時はノリコさんに相談するがいい。男を見る目はしっかりしてるようだから。いつの日かマックの元気な子ども達に会える日を楽しみにしている。じゃぁマック、達者でな。あばよ。

 9月9日、ついに久良木さんが全国行脚の旅に出発します。Good Luck! 
 久良木基金の発足とお願い 
 9月9日、久良木さんがいよいよ『出会いの旅』に出発します。9日夜、新宿の屋台で盛大な壮行会をしたあと夜行バスに乗り大阪へ出て、そこから船で沖縄へ。沖縄の地から、「何年かかるか定かでない」全国遊説の旅が始まります。

私が勝手に考えますには、この旅には三つの意味があると思います。

一つ目は、久良木さん自身の「人生の総決算」、
二つ目は、いわゆる「精神障害者」(当事者)の解放に向けた基盤づくりのための遊説、
三つ目は、当事者だけでなくすべての人たちの人間的な解放という壮大な展望を切り開く旅。

 以上の観点に立った時、今日から始まる『旅』は、私たち一人ひとりの旅でもあります。この旅の重さを久良木さん一人に背負わせることはできません。久良木さんに快適で充実した旅を続けていただく為にも、「能登半島あたりの駅前で空き缶を前に坐って」もらわない為にも、『久良木基金』を発足させ、久良木さんと「同行二人」したいと思いますので、ご協力をお願いします。 
『久良木基金』の会(世話人 赤羽・ハネやん・隆一)

久良木さんを囲んで
(1996年9月6日) 会場「オープンスペース街」2階
週刊「街ニュース」第177号(1996年10月5日発行)
9月6日、久良木さんが日本一周“出会いの旅”に出る直前に“オープンスペース街”で久良木さんのお話をうかがいました。以下の文は、その話し合いの模様を久枝さんがテープを起こしてくれたものです。

 一応、保護室から、閉鎖病棟、準開放病棟、開放病棟を一通り経験しています。

 病気になったからといって、人からとやかく言われる筋合いがないわけで、例えばお腹を壊したからといって「あなた、シッカリしなさいよ」と言えないでしょ。人間、誰でもいつかは病むわけで、お年寄りが寝込んだ時に「あんた元気じゃなければいけない」なんて言われたら、たまったものではない。それと同じで、人からとやかく言われる筋合いではないが、自分としたら辛いでしょ。眠れなかったり、不安感もつきまとう。それをなんとか癒していきたい。だから病院にも掛かっている。

 何とか自分の症状がそんなに酷くならないで癒せるようになった、山を越せるようになったには年のせいもあるかもしれない。10年ちょっと前に陽和病院でちょっと抜けたんですね。この病いは完全に消えることは絶対にないと思うんだけれど、ちょっと抜けた。
       
 なぜ抜けたかというと、NHK(「明日の福祉」)を見ていただけたと思うけれど、(陽和病院の)患者会活動をやるようになって、皆とドタバタ・ドタバタやりだした事が大きなキッカケでした。


 もう一つは離婚したことで財産を別れた女房に渡し、身の回り品しか残なかった。その時ポケットの中に3000円位しかなかった。入院中だったので生活保護を受けた。

 いろんな仕事をしてきて、一生懸命頑張ってきて、人に一目置かれるいい仕事をしようと頑張ってきたが、そういうものが全く無縁の暮らしに入った訳で、それが大きいと思います。僕の病いが抜けたのには…。…肩の荷が降りたような気がします。お金を持っていない生活をあまり気にしなくなった。(犬の)マックほどにはいかないけど……(笑!)。

 僕よりも辛い思いをしてきた仲間が病院にはいっぱいる。20年~30年と入院していて。そういう人達と一緒にワッショイワッショイやっている中で、病いが抜けたわけです。

 それで患者会活動を始めてその延長で作業所(ほっとすぺーす練馬)づくりを7年前にした。ひょんなことから応援で所長を1年間やる羽目となって、(ほっぺーす)関町のオープンにもかかわり、早く足を洗って患者会活動に専念したかったが、1年半おつきあいさせてもらった。

 そして、ほっとすぺーす関町をやってる時に、ハネやん(赤羽さん)と出会って、それ以来の“街”とのおつきあいです。 ほんとに(“街”に滞在していた)この1ケ月間、大変に勉強させてもらいました。詳しくは“チャンプルー街”の新聞(170号)に載せましたので、是非読んでみて下さい。

 大変勉強させてもらった1ケ月間でした。そして勇気づけられました。なぜかというと、作業所が東京には250ケ所くらいありますが、残念ながらこういう(“街”のような)作業所は、数えるほどしかありません。

 なぜ作業所をつくりだしたかというと、病院に大量入院させられている。地域でいろんなこういうサービスの施設があれば……ということで「受け皿」として、作業所づくりが始まった。それはそれで大きな意味があると思いますが、残念ながらその中で、病院は患者を隔離・収容する形になっていて、多くの作業所は、地域で患者さんが悪いことをしないように管理していく施設として、本人は意識していなくても実質的にそういう機能している作業所が多いんです。

 それでは何の意味もないんで……。(参加者から「管理とは」の質問があり)患者さんがことを起こさないように作業所に通わせれば何とか地域で暮らして行けるだろうという発想。保健所とか作業所づくりににたずさわっている人、一般市民を含めて、そういう流れがあるわけで。そう、やろうとしている人達は気持としては「善意」なんだけど、それでは困るわけです。そうじゃない作業所を「ほっとすぺーす」でも目指してきた。
 3年間、リサイクルショップとしての実績があったからでしょうけど、この4月に“街”は作業所になった。そういうことのない作業所、一言でいうと、作業所はメンバーさんが“利用する”ためにあるでしょ。現に得るものがあるから通われるわけで。

 自分の都合に合わせて、調子が悪かったら休むとか、気兼ねなく休むとか、そう作業所であるべきですよね。でも多くの作業所は、“来なければいけない”“通わねばならん”場所という感じで、まさに管理される場所になってしまう。

 理屈抜きに“街”では、皆がうまく“利用する場所”になっているなと。いろいろ壁はあるだろうが、短期間にいい作業所になったなぁということ、こういう風にやれば、そういう場所になると教えられたことが、一番の収穫でした。

 それと、本物が出てきたなぁということで勇気づけられもしました。これはスタッフや運営委員会の人たち、ボランティアの方々だけでなしに、実際に運営されているメンバーの人たちが、「何かようわからんけども、いい作業所にしていこう」という思いの“持ち寄り”の中で生まれてきたんだろうなと思います。
 
 もう一つは(“街”の)1階の壁に写真が貼ってあるでしょ。(精神障害者日本カナダ交流)の人たちが来た時の写真です。3年ほど前に、僕らが始めたカナダの当事者との交流の写真で。第一次交流としてカナダから10人ほど見え、いろいろな(練馬区の諸施設)へ見学に行き(その際“街”の前で撮った)写真です。

 (カナダの代表団は“街”に)ものすごく感心し、興味を示したんですね、実際に見て。実は、こういう場がないんです、カナダには。リサイクルショップというのは、ありますよ。ただ、こういう形の当事者のための施設としてのリサイクルショップはない。これはある意味じゃ、カナダと交流をやった目的はカナダでは、いろいろケアが進んでいて、そこから学びとろうということで始めたわけですが、さらに進んだケアの姿がここにある、ということでカナダの人たちも気が付いて、興味を示された。

  どういう事かというとね。

 カナダでは共同住宅から、作業所、クラブハウスとか、たまり場とか、グループ活動の拠点とか、整理がつかない位いっぱいあって、そういうことで病院をどんどん減らして、その資金を地域に回している。人口対比でいうと、日本では35万人ほど入院していますが、カナダでは(入院者は)10分の1くらいしかいない。そのカナダの仕組みを地域に回して、地域で皆が“普通に生きていける”ようにという風になっている。そのカナダの中でも、“街”のようなこういう場はないんです。なにが欠けているのかというと、一般市民との交流の場ですね。カナダでも一般市民との交流の場はあります。あるいは当事者がいろんな事をやることにボランティアやリサイクルをやっている人たちが応援という形はあります。  
 ここ(“街”)は、日曜は休みですよね。しかし、日常的に開かれ、つきあっていますよね。それが大きいんです。一人ひとりのお客さんが(“街”の)趣旨を理解して参加していてオープンしていて、お客さんがどんどん増えてきて理解してくれてきている。その繋ぎ役としての貴重な存在がボランティアの方々ですよね。日常的に開かれていて、我々と地域の人たちがふれあう機関があるということ、これなんですよ。これが究極の姿だろうと思いますよ。
 
 ここが出来た時、こういう気持があって、カナダの連中(代表団)をここに連れてきたわけですけれど、改めて実際にこの一と月間“街”でうろうろ邪魔していて、そう感じました。これは大きな収穫だったし、大変、勇気づけられました。
 
 これから出かける全国の旅の中で“吹いて”まわりますから(笑!)。こういう風に頑張っている所があるんだから、参考にして下さいと。            

 
残りの部分は、今度掲載することにします。
「テープ起こし」という大変な作業をしてくれた久枝さんに感謝! 一度でもやったことがある人なら分かると思いますが、何度も何度もテープをまき戻して話の内容を書き出す作業です。今回の場合は“街”の2階でしたが、車のクラクション、××ちゃんのチャチャ、電話、いろいろな音が入った中で、久良木さんの話を聞き分けるのですから大変だったと思います。
*よく聞き取れなくて、勝手に解釈した部分がありました。お許しを!

★たくさんの方から『久良木基金』へカンパが寄せられています。「皆様が生き生きと生活されていることに、とても嬉しく思っています。
 久良木さんが、いよいよ全国行脚に出発されたそうで、当地にも寄っていただくのを楽しみにしております。小額ではありますが、『久良木基金』にご協力させて下さいますよう、よろしくお願いします」 九州のNさんから5万円が送られてきました。感謝いたします!

 

「日本全国・出会いの旅」その2 週刊「街ニュース」第199号(1996年12月25日発行)より
よう、マック、元気か

 すっかりごぶさたしてしまったが、元気にしているか、マック。     
9月に東京を出発してから大阪で2カ月、福岡で1カ月余り過ごしているうちに、あっという間に年の瀬を迎えてしまった。この後いよいよ念願の沖繩へ向かい、新年は南国の砂浜で迎えることになりそうだ。旅は予期した以上に実りある日々の積み重ねで、多くの方々に支えられながら楽しく歩いている。    

 いうまでもなく「基金」に寄せられた多くの人々のご好意と励ましはなによりも心強い。おかげで今のところ「空き缶」のお世話になる(*編者注。駅前で空き缶を置いて募金を求めることもなく過ごしている。皆さんに心からの感謝の気持ちを伝えてほしい。         

 大阪、福岡で出会った人は、すでに500人を越してしまった。見学、会合、資料蒐集などが目白押しで、けっこうハードな旅になっている。時には「こんなはずじゃなかったのに」と勝手な思いがよぎることもあるが、貴重な出会いや新たな発見で得られる充実感はなにものにもかえがたい。                  
 旅が始まったばかりだというのに、収穫は溢れんばかりで、いささか消化に手間取っているというのが実情である。きょうは、大阪、福岡で訪問したりした主なところを書き記そう。リュックの中を整理するいい機会でもある。                                 マック、まあ気楽に聞いとくれ。

 大阪の巻  福岡の巻

□見学・訪問先
▲釜か崎高齢日雇労働者の仕事と生活をかちとる会(西成区)
▲釜か崎医療連絡会(西成区)
▲阪南病院(堺市・釜か崎在住入院患者の見舞)
▲大和川病院(柏原市・事件現場)
▲大阪精神医療人権センター(北区)
▲光愛病院(高槻市・病棟と患者会)
▲さわらび診療所(吹田市)
▲共同作業所トータスハウス(生野区)
▲解放出版社(浪速区)
▲大阪府環境保健部(中央区・資料蒐集)
▲浅香山病院(堺市・デイケア) 
□参加した集いなど
▲釜か崎三角公園炊き出し(西成区)
▲日本病院地域精神医学会総会(中央区)
▲野宿者集会(西成区・津守公園)
▲大阪精神医療人権センター事務局会議(吹田市)
▲大阪精神障害者連絡会交流会(中央区)
▲大和川病院事件裁判(北区・大阪地裁)
□歩いた所
▲天満商店街周辺(北区)
▲釜か崎・通天閣周辺(西成区)
▲大阪城公園(中央区)
▲ミナミ道頓堀周辺(浪速区)

□見学・訪問先
▲福岡県精神障害者家族会連絡会(小倉北区)
▲八幡西共同作業所(八幡西区)
▲八幡厚生病院(八幡西区・病棟とデイケア)  
▲北九州市精神科診療所協会月例会(小倉北区)
▲若松区地域ケアネットワーク月例会(若松区)
▲精神障害者家族・社会復帰施設職員研修会(早良区)

▲くるめ出逢いの会懇談会(久留米市)
▲障害者の日・出会いとふれあいのつどい(久留米市)
▲久留米大学附属病院精神科デイケア懇談会(久留米市)
▲アドバンスセンターメンバー懇談会(田川市)
□歩いた所
▲小倉城周辺・日過市場・小倉港(小倉北区)
▲若松港・千畳敷海岸(若松区)
▲香椎宮周辺(八幡東区)
▲中州周辺(博多区)
▲梅苑・水天宮(久留米市)
▲三池炭鉱周辺(大牟田市)
▲田川炭鉱跡(田川市)
               はいお疲れさま、マック  


 ずーっと背負ってきた「残務整理」も、間もなく「日加交流報告書第4部」が完成して、一区切りがつく。人間の生きざまというのは、なるべくシンプルなのがよいとつくづく思う。東京の住居を引き払って旅に出たのも、一つにはその思いがあったのだから。沖縄に着いたらもっとゆったりした旅になるだろうと期待している。北九州の仲間からは「そげんうまかこつ、いくとね」と冷やかされたが、断じて実現するつもりだ。でなきゃたまらんと。

 デイケアのこと、作業所のこと、クリニックのこと、寄せ場や野宿者のことなど山積しているテーマについては、ぼちぼち書いていく。そういうわけで、いい新年を迎えてくれ。

「街」や「基金」の皆さんにはくれぐれもよろしく伝えてほしい。そして「関町」の皆さんにも。      
                                                       じゃぁマック、またな。


「日本全国・出会いの旅」その3
マック、デイゴの花が咲きはじめた

 日本全国『出会いの旅』に出ている久良木さんから、久しぶりにファックスが届きました。大阪から九州に行き12月に沖繩に渡ったところでバッタリと音信不通になり……“チャンプルー街”で三線教室を教えているナミちゃんが1月沖繩へ行った時に泊った民宿で偶然彼に出会ったとか、宮古島へ渡ったとかの未確認情報はあったが……。ともかく久良木さんの最新情報を掲載します。

 緋寒桜の季節が終り、八重山諸島のほうからは早くも県花とされている「デイゴ」の花便りが届きはじめた。例年より10日ほど早いそうだ。那覇の街には初夏の香りが漂い、道行く人々の足取りも日増しに軽やかになっていく。

 ハネやんやノリコさんお奨めの公設市場にも早速出かけてみた。あふれんばかりの活気は想像をはるかにこえていた。店頭にでーんと並ぶ豚肉や牛肉の塊り、いかにも新鮮ないままで見たこともない魚の数々、ゴーヤーはいうにおよばず名も知らぬ野菜の豊富さには驚くばかり。

 そして衣類や雑貨にいたるまで大小の店が延々と軒を連ねる。第二次大戦で焼土と化した沖繩では人々の暮らしの営みは公設市場から始まった。廃墟の中から人々が自然に集り、日々の糧を求め合ったのだろう。公設市場は県内の主要都市では、どこでも見ることができる。ネコ車に大きなトマトを山積みにしたおばさんが、カマボコ屋と菓子屋の境い目あたりに車を止めて、いきなり商いを始めた。早速常連らしいおばあちゃんと、にぎやかにウチナーグチのおしゃべりに熱中する。

 いつの間にどこから現れたのか、すぐ足もとにマックの同類が鎖もつけないで悠然と座っている。マックの二倍くらいはあろうか、その風格たるやただものではない。マックのパートナーとしてどうだろうかと身をかがめてのぞこうとしたら、ウーッとうなりながらこちらをにらんでどこかへ行ってしまった。                      残念、マック

 戦争は沖繩の人々の4人に1人というおびただしい数の命を奪っただけでなく、大量の精神病者を生み出した。戦後米軍統治時代の調査によると、戦前は本土並みだった人口当たりの病者数が、ほぼ2倍の水準に達していたそうだ。その名残りだろうか最大の激戦地となった沖繩本島南部では、いまも病者数が多い。精神病院に収容されている人々は県全体で5600人にのぼり、地域ケアもきわめて乏しい。しかしここ数年、まったく新しい風が吹きはじめている場面に県内の各地で出会った。沖繩の空のように透明で、身の弾む思いにかられる風である。

沖縄本島から船で10時間ほど離れた南の宮古島で、この1月末「コンシューマーズ交流会イン宮古」という画期的な集いが開かれた。当事者を中心に家族、スタッフ、ボランティアの人達が500人、県内各地から集まったのである。「セルフヘルプ活動を強化して支援ネットワークを拡大しよう」というテーマで、4人の当事者が体験を発表するシンポジウムがあり、夜には盛大な懇談会が開かれた。各地のさまざまなグループが次々に登場し、歌ありコミックあり、その芸達者ぶりには、もう参った参った。     

 人口127 万人の沖縄で500 人の当事者達が集う、これがどれほど大変なことか。人口62万人の練馬区に置きかえてイメージしてほしい。しかも北端の伊平屋島から南端の波照間島まで、およそ600キロ、東京から国道沿いに南下してゆうに大阪に達する距離である。マックが走りづめに走っても1カ月はかかるだろう。ちょろちょろ道草しようものなら、何年かかることやら。 こりゃ、マック、どこへ行く  

 那覇市に「メンバーズクラブふれあいの会」という会がある。発足してから2年余り、ここでいう「メンバーズ」 はクラブのメンバーという意味で、当事者はじめ家族やスタッフ、ボランティアなど誰でも自由に参加できる。会の規約などは今のところなにもない。                

 この会の集いが毎週金曜日夜の7時から9時まで保健所を借りて開かれる。いつも30~40人ぐらい集り、すでに100回を数えた。毎回テーマを決め5~6グループに分れて自由に話し合う。その結果を各グループの代表が発表した後、自己紹介を兼ねて1人ひとりその日の感想や近況などを語るわけだが、和気あいあいとした雰囲気が実にいい。            

 会が毎週発行するニュースは、メンバーを結ぶ絆になっているだけでなく、那覇市はじめ県内の精神保健に関する動きを伝えていて、各地の活動の励みともなっているようだ。会が発足して間もない1995年9月、「有限会社ふれあい工場」を設立、代表取締役には通院中の当事者のひとりが就任した。主な事業種目は蜂蜜や牛乳、天然塩、無農薬野菜など健康食品の販売で、その他清掃の請負、公共施設での喫茶レストランの受託経営など着々と事業を拡大している。職親制度を巧みに利用したりして「最低賃金」並みの賃金確保を図っており、これはもうれっきとした就労の場である。

 那覇港に近いバスターミナルの目の前に4階建てのビルが立つ。その一階に「ふれあい工場」の店舗があるわけだが、会は二階から四階までの大半を当事者のためのアパートとして借り上げている。各階7戸ずつ合計21戸のうち1戸は一般の人が借りていて、17戸をアパートとして利用、2戸は離島から那覇に出てくる人達が寝泊まりする部屋として提供し、1戸はアパートの住人や「ふれあい工場」の人達の憩いの場となっている。各戸とも2DKバストイレつきで、所帯持ちでも住める広さである。家賃は月3万3000円、生活保護の住宅扶助が上限3万2000円だから、なんともうらやましい。会はさらに共同作業所もスタートさせた。まだ補助金を受けるにいたっていないが、蜂蜜の巣箱づくりが主な作業となっている。よし、マック、聞いてるな

 マック、もう気づいただろうか。
まず当事者を中心に一般市民も含めた「ふれあいの会」があって、それをベースに地域ケアの施設づくりを進める。この姿こそ東京でなしえていない、そして“街”グループが模索している姿である。

 那覇を追うように八重山諸島の石垣島でも、「いこいの家」をつくる動きが始まった。当事者を中心に家族、スタッフ、一般市民が気楽に憩う場としてつくり、その交流の中で地域の特性に見合った当事者のニーズに応える施設づくりを手がけるという。これは県内にある病院経営のグループホームや入所授産施設、家族会経営の共同作業所といったこれまでの施設づくりとはまったく異なった新しい波である。               
 マック、すごい予感がする。精神保健改革のうねりは沖縄から起こるのではないかという予感だ。「当事者中心」「当事者の声を反映して」と掛け声だけが空回りする東京からは起こりえない。過酷な歴史にもかかわらず、美しい自然の中で息吹く豊かな琉球文化に病者ならではの感性が予兆を嗅ぎつけたとだけとりあえず言っておこう。              

 そういうわけで、4月初めまで沖縄の地を歩き続けることとした。北九州ですっかり世話になった西さんの娘さんから『出会いの旅』は「双六の旅」だと笑われた。振り出しに戻ったり、1回休みがあったり。離島への旅は船で行く。波の上を歩いていけるんじゃないかといった妄想にはいまのところとりつかれていないから安心してほしい。
 
『チャンプルー街』の新聞に、マックがこの頃よく家出すると書いてあったが、車にひかれないように気をつけろ。そして道の真ん中にクソするのだけはやめたほうがよいと思う。   
 
 “街”の皆さんと、『出会いの旅』を支援し続けてくださる皆さんにくれぐれもよろしく。じゃあ、またな、マック 
                                                    1991.3.12 那覇にて    


「日本全国・出会いの旅」その4

「街ニュース」第232号(1997年6月18日発行)

「命どぅ宝」だ、マック

 沖縄へ来て、とうとう4カ月も経ってしまった。この間、マックも知っての通り、「コバルト荘」の照屋さん一家にはすっかり世話になった。何かに導かれた出会いとしかいいようがない。

 「沖縄にいると日本が見えてくる」とよくいわれるが、まったくその通りだと思う。沖縄の地がひきつけてやまないのは、豊かな自然だけではなく、人々の心の豊かさである。そしてそれがいま日本で失われつつあるいちばん大切なことと気がつく。

 4月から5月にかけて土地収用特別措置法「改正」という嵐が吹き荒れる中、町や村で抗議する人々の胸には「命どぅ宝」(ぬちどぅたから=命こそ宝)というゼッケンが付けられていた。

ヤマトンチューによってもたらされた沖縄の過酷な歴史は沖縄戦で頂点に達し、多くの尊い命を奪い、人々のつましい暮らしと美しい自然を容赦なく破かいした。しかし自然を畏敬し、人間の命をなによりも尊しとする思いは脈々と生き続け、いやむしろ過酷な歴史の中でその思いを募らせてきたのだろう。

 沖縄は長寿の国だといわれているのに、お年寄りの占める割合(高齢化率)が意外と低い。全国平均が15%に達しているのに沖縄では11%と大幅に下回っている。その年代の人達が沖縄戦で大量に命を奪われたことを反映しているのだが、もう一つ女性が子供を産む数(特殊合計出生率)が1,9人と全国平均の1,4人に比べ高い水準を維持していることも影響している。
カチャーシで知られる通り、琉球の歌と踊りは人々の日常生活に広く深く根付いている。全国どこを探しても見られない光景だ。お年寄りもすこぶる元気で、若者がお年寄りを大切にする姿は実にすがすがしい。そこから響いてくるのは限りない人間讃歌だ。

 マック宛てのこの前の便りで、「精神保健改革のうねりは沖縄から起こるのではないかという予感がする」と書いたと思う。 
覚えているかマック 年老いても、貧しくとも、そして障害があっても、何よりも命が宝だという思い。この思いこそすべての弱者が地域で共に生きていくことを可能にする根っ子である。国によって押しつけられた「精神保健福祉法」のくびきから解き放たれたとき、沖縄の地域社会は、精神障害者をいち早く受け入れるだろう。

 沖縄タイムスの記事をマックも見てくれたことと思う。日本の新聞史上画期的ともいえるこの大型企画は、毎週木曜朝刊に1頁全面を使って、20週にわたって精神障害者のことを書き続けるそうだ。この記事に見られるように、精神障害者の復権を求める動きは、当事者、家族、スタッフだけではなく一般市民の間に確実に広がりつつある。そうだ、吠えろ、マック 沖縄で学んだことはあまりにも多く、例によって消化に手間取っている。とりあえずリュックの中を整理するために訪問先など主なところを書き記しておこう。

□見学・訪問先 ・島成郎先生宅(北部・本部町)
陽和患者会結成時の陽和病院長。現在は名護市の「メンタルクリニックやんばる」に勤務。

・田場窯元(北部・大宜味村)
沖縄陶芸界の異才。その作品は窯元でしか求めることができない。

・本部記念病院(北部・本部町)
沖縄海洋博の後ホテルを転用した病院。302床。病棟詰所のミーティングでは看護について質の高い質問を受けた。 

・金城窯元(中部・読谷村)          
人間国宝・金城次郎さんの窯元。ここでは生命感に溢れた多くの作品に接することができる。   
 
・共同作業所SFDなごみの会(中部・読谷村)
手すきの紙や漬物、クッキーなどを作っているが、地元特産の紅芋やガジュマルの樹皮を利用した葉書がユニーク。

・米軍嘉手納基地(中部・嘉手納町)      
アジア最大の米空軍基地。ちなみに沖縄県での米軍専用施設の面積は、日本全国の75%を占めている。        

・米軍楚辺通信所(中部・読谷村)       
 極東米軍の中枢的通信施設。知花昌一さんの土地返還闘争で知られる「象のオリ」。

・てるりん館(中部・沖縄市)        
「コザ独立国大統領」を名乗る照屋林助さんの本拠地。三線片手に歌い語る 笑いに満ちた芸は一級品で、偉大な思想家でもある。サトちゃんと二人だけのために、2時間近く演じてくれた。

・琉球大学医学部(中部・西原町)
名嘉幸一先生を訪ねる。学生諸氏とも長時間語り合うことができた。

・沖縄県精神障害者福祉会連合会(南部・南風原町)
会長の山里八重子さんから学んだことは計り知れない。中堅・若手のすぐれたスタッフを擁し、その活動は家族会の枠をはるかに超えている。

・ひめゆりの塔・平和祈念公園・摩文仁ノ丘(南部・糸満市他) 
沖縄戦最大の激戦地に祈りの碑は多い。祈念公園の「平和の礎」は、沖縄の人々だけでなく朝鮮・韓国人、中国人、米兵までも祀っていて、都道府県の慰霊塔の大半が沖縄の人々への哀悼の言葉を欠いているのと対照的である。

・島唄(中部・宜野湾市)
ネーネーズの本拠地となっているライブハウス。古典と新曲との間に隔たりを感じないのが琉球音楽と踊りの特徴でもある。飛び入りの若者二人のエイサーで、会場は一気に盛り上がった。

・沖縄県庁・沖縄県立図書館(南部・那覇市)
戦争で歴史的資料の多くが消滅したが、県史料館を中心に内外からの資料蒐集に力を注ぎ、本格的な県史編纂作業が始まっている。

・ふれあい工場・ふれあいアパート(南部・那覇市)
いずれも「ふれあいの会」をベースに作らたもので、健康食品の販売・名刺印刷などを手がける会社と2DKバス付17戸の借り上げアパート。地域ケアの一つの方向を示唆している。

・宮古保健所(宮古・平良市)        
宮古地方1市5町村を管轄する保健所。月1回のデイケアを実施しているが、「コンシューマーズ交流会イン宮古」を契機に地域ケア充実の方向を模索している。     

・県立宮古病院精神科(宮古・平良市)     
準開放病棟50床。豊富なスタッフを抱えているが、地域ケア施設の不足が悩みの種。

・共同作業所フレンドリッチニューサシバ(宮古・伊良部町)
宮古島から船で15分ほどの伊良部島にする家族会経営の作業所。紙工芸のほか、サトウキビ刈取、町の清掃作業などを請負っている。       
・県立八重山病院精神科(八重山・石垣市)  
八重山地方1市2町で唯一の精神病棟。50床あるが約70%の利用率で、完全開放。


・八重山保健所(八重山・石垣市)       
八重山地方を管轄し、週1回デイケア実施。地域ネットワーク作りにかける期待は大きい。

・八重山精神療養者家族会(八重山・石垣市)  
会長の大浜守哲さんの人間的ぬくもりと傑出した見識・行動力には驚嘆するばかり家族だけでなく、当事者、スタッフとともに「いこいの家」づくりに奔走している。 

□参加した集いなど 
・名護保健所講演会(北部・名護市)      
「当事者のニーズと求めるケア」と題して報告。数日前に決まった会合にもかかわらず、90人もの当事者、家族、スタッフ、行政担当者が集った。

・読谷村ボランティア連続講座(中部・読谷村)
「当事者が抱くボランティアへの期待」と題して報告。20人ほどの参加者が熱心に耳を傾けてくれた。

・野菊の会(家族会)例会(中部・沖縄市)
山里会長のお伴をして参加。当事者やコザ保健所スタッフも交え20人ほどの家族の話を聞く。産業社会の論理がここ沖縄でも当事者・家族のうえにおおいかぶさっているのを感じる。

・コンシューマー交流学習会(中部・沖縄市) 
県総合精神保健センター主催で開かれ280人ほどの当事者、スタッフが参加。「恋愛」「対人関係」「就労」の3分科会に分かれて、熱心な話し合いが行なわれた。

・てるしのワークセンター懇談会(南部・南風原町)
てるしのワークセンターは福祉会連合会が県から委託されて運営している通所授産施設で、本格的なパンの製造販売を行なっている。メンバー・スタッフ20人参加。

・沖縄県精神障害者福祉会連合会懇談会(南部・南風原町)
連合会の年次総会後開かれた懇親会に出席。60人ほどの参加者に沖縄滞在中の謝意と期待の挨拶を行なう。

・サマリア人病院デイケア・患者会交流会(南部・南風原町)
サマリア人病院はクリスチャンのオーナーが経営する精神病院。274床。 誕生したばかりの患者会とデイケア合同の交流会。30人ほど参加して手づくりの料理を食べながら盛り上がる。

・田崎病院デイケア懇談会(南部・那覇市)  
サマリア人病院と同系列の精神病院。248床。20人参加。メンバーが気楽に利用している雰囲気が印象的。

・登校拒否児親の会(南部・那覇市)     
稲田クリニックの一室で開かれた会合ではフリースクールのことが盛んに話し合われていた。わが病の原風景が甦える。

・ふれあいの集い(南部・那覇市)      
毎週金曜夜開かれる「ふれあいの会」の集い。延べ7回出席し、そのつど40人前後の当事者・家族・スタッフ・一般市民とさまざまなテーマで語り合った。         

・沖縄タイムス記者勉強会(南部・那覇市)  
論説委員、社会部、政経部、学芸部、運動部から7人の記者・カメラマンが出席。精神障害者が置かれている状況と改革の方向を中心に3時間のレクチャー。懇談は深夜に及んだ。 

・コンシューマーズ交流会イン宮古(宮古・平良市)
県内各地から500人の当事者・家族・スタッフ・一般市民が参加。「セルフヘルプ活動を強化して支援ネットワークを拡大しよう」というテーマで、当事者4人によるシンポジウムの後、盛大な懇親会。

□歩いた所
・辺土岬、茅打ちバンダ、今帰仁城跡、沖縄記念公園、塩川海岸、万座毛、ムーンビーチ(北部) 
 
・コザ市街(中部)              

・識名園、波の上ビーチ、壺屋、公設市場、国際通り、豊見城公園、琉球ガラス村、喜屋武岬、玉泉洞、奥武島、知念城跡、斎場御嶽(南部)

・前浜ビーチ、人頭税石、砂山ビーチ、池間島、平安名崎、ドイツ文化村、伊良部島通り池(宮古)
・川平湾、竹富島コンドイビーチ(八重山)

 最後になったが、サトちゃんのことについて記しておきたい。すでにサトちゃんが「チャンプルー新聞」(*「街ニュース」のこと)に書いてくれたように、1カ月間、はるばる応援に駆けつけてくれた。



 時にへたり込みそうになったとき、サトちゃんにどれほど助けられたことか。旅の途上日々山積していく膨大な資料の整理だけではない。同じ病者として、交流会や講演会、さまざまな人々や自然との出会いをいっしょに体験してくれたことで、いっそう理解を深めることができた。そしてあのゆったりしたペースと息使い。サトちゃんには沖縄がよく似合う。とりわけ琉球の音楽と言語を理解する感性。「コバルト荘」のおかみさんが驚くほどで、「沖縄に住みなさい」とまでいわれていた。マックからも感謝の気持ちを伝えてほしい。

 いよいよ沖縄を離れる日が来た。昨夜は宿の屋上で一家総出の送別会を開いてくださった。十六夜の月を眺めながら、バーベキューに舌鼓を打ち、ビールで乾杯。そして極上の古酒泡盛。デンバー(アメリカ)から帰省中の姪御さんも加わり、いやがうえにも盛り上がった。
そうそう、忘れてならぬ参加者がもう一匹。ケンというマックの同類である。マックと同じくまぎらわしい名前だが、れっきとしたレディである。そのケンが先月4匹の子犬を産んだ。ありゃりゃ。

 ノリコさんとトミタさんによると、マックにも恋が芽生えている気配があるそうな。おおいに恋すべし。愛すべし。それは生命の輝き、生きる喜び、至上の営みだと思う。 
   そおーれ、マック


出会いの旅・その5(番外編)週刊「街ニュース」 第238号 (1997年9月4日発行)

元気か、マック

 関町の夏はとりわけ暑さが厳しかったようだが、マックのことだリサイクルショップ「街」の筋向かいにある木陰で昼寝をしたり、店の裏口の風通しのよい道路で寝そべったりして、うまく切り抜けていることと思う。

 いま、老連美村(注:カナダ)というところで「出会いの旅」の成果を整理しながら執筆に専念する日々を送っている。日加交流でもなにかとお世話になったみどりさんという方のお宅に居候させていただいているわけだが、2匹の猫と3人(匹)暮らしだ。

 猫の名はシロとクロ、4匹いっしょに生まれたうちの2匹でシロがオスでクロがメス。どちらが先に生まれたかは定かでない。実はそれぞれれっきとした本名があるのだが、う--ん、忘れてしまった。シロは薄いチャコールグレー、クロは黒い毛に覆われていて胸元と足先だけが白い。それでみどりさんがいつの間にかシロ、クロと呼ぶようになったらしい。

 そういえばマックの名前の由来を知ってるか。光が丘でバザーかなにかがあッたときにマックはハネやんにもらわれた。その時ちょうど目の前にマクドナルドの看板が立っていた。それでハネやんがマックという女性には似つかわしくない名前をつけたそうだ。  

 千円札に顔が出ている夏目漱石、この人は躁うつ症の大先輩なんだけど「我が輩は猫である」の主人公に最後まで名前をつけなかったくらいだ。どうも人間の大人は動物の名前についてはいい加減なところがあるようだ。   いまさら怒るな、マック

 シロの本名は、みどりさんの息子さんがつけたもので、イギリスに実在する「手でエサを食う猫」の名前から取ったそうだ。世の中にはすごい猫がいるもんだな。クロの本名は妹さんがアメリカの漫画かなにかの主人公の猫の名前からつけたそうな。息子さんも娘さんもこの2匹をとても可愛がっていて、もちろん本名で呼んでいる。 息子さんとはしばらくいっしょに暮らしていたんだけど、ロンドンに就職することになって間もなく旅立って行った。その旅立ちの日、東の空がようやく白み始めた早朝に家の前の道路に出て別れを惜しんでいると、背後から「ニャン」という声がする。振り返ると玄関のドアのところで2匹の猫が並んで息子さんを見つめていた。こんなことは初めてだそうで、普段は陽気な息子さんも、声を詰まらせていた。 そう、マックも見送ってくれた

 シロとクロに日に2回エサをやることとクソ箱の始末をするのが日課となっている。机に向かう仕事をしているとつい睡眠や食事が不規則になりがちで、下手をすると妄想がわいたり幻聴が聞こえたりすることになりかねない。その点エサとクソが日課になっていることで歯止めがかかり、まずまず健康な日々を送っている。ヒルナミンとかリーマスなんかよりずっといい。マックはヒルナミンを飲んだことあるか。あれはムダな抵抗はやめろと必殺技を掛けてくる感じで、右に行けばフラフラ、左に行けばヨタヨタ、素人が飲むのはよしたほうがよいと思う。

  もう一つシロとクロに感謝しなければならぬのは、唯一話し相手になってくれることだ。歩いて20分ほどのスーパーへ買い物に行くのとたまに仕事の打ち合わせで街へ出かけるときを除けば、人間と口をきくことがない。まだ十分に会話が成立しているとはいいがたいが、とにかく話しかければ尻尾を振ったり振り向いたりしてくれるので気晴らしになる。心を開くにはまず口を開くことだとつくずく思う。「街」で厄介になったときも、マックのおかげでずいぶん助かった。             ありがとよマック

 シロとクロはまぎれもなく猫なのだ。しかしこれまで見てきたのとはちょっと違うところがある。まずでかいこと。普通の猫が舞の海くらいだとすれば、シロは小錦、クロは水戸泉といったところか実に恰幅がいい。顔立ちはなかなかのもので、土佐の海、琴の若あたりを思わせる。そして尻尾がこれまた太くて長い。すりこ木くらいの長さで太さは2倍くらいはある。クロは机に書類を広げるとすぐ上に乗ってきてチェックしてくれるが、なにかの拍子に尻尾を一振りすると、この前摘発された大和川病院のパンフレットなんか1メートルくらいはすっ飛んでしまう。

 変わっているといえば、極め付きは2匹ともよくひっくり返って仰向けになることだ。大股を開いて、両手は胸元にちぢめる。このポーズが何を意味するのか、外から帰ってくるとクロはときどき玄関の板張りでひっくり返ってみせるし、シロは夜中そっとのぞくと食卓の下でこのスタイルのまま気持ちよさそうに寝ていることがある。背中を痒そうに床に擦っているこ

ともある。シロとクロに聞いてみても、ただキョトンとした顔で見つめるだけで、いまだにそのわけを教えてくれない。

みどりさんによると、漫画家の赤塚不二夫さんとこの猫が同じ動作をするらしい。いちど尋ねてみたいものだ。  マックの場合はわかっている。

 エサといえば、シロもクロも豆粒くらいの大きさのキャッツフーズを食べている。毎度このエサだけでよく飽きないものだと思う。このまま一生食べ続けるのだろうか。たまにはホウレン草のゴマ和えとかキュウリの酢の物、ゴーヤチャンプルーなぞ食べてみたらどうなんだろうか。子供の頃「我が輩は猫である」を真似して三毛猫にモチを食べさせたら口の中にへばりついてもがきまくり、母親にひどく叱られた。だからいまのところどうしようか迷っている。

 シロもクロも、どういうわけか狭いところに興味があるらしい。鞄のフタが開いているとすぐ入り込むし、甘えん坊のクロなぞはこっちがちょっと横になるとすぐに上に乗ってきて脇の下や股ぐらに首を突っ込んでくる。そしていちばん好奇心をそそるのは書類袋やゴミ袋の類いで、入り込むのはいいが中身を掻き回したり引っ張り出したりするのでかなわない。

 袋といえば、「山寺の和尚さん」はマリの代わりに猫をかん袋に押し込んで蹴飛ばしたらしい。ひどい坊主がいたもんだ。それが童謡になっているというんだから、これまた驚いてしまう。試しに「山寺の和尚さんはマリを蹴りたしマリはなし……」と歌ってみたら、2匹ともすーっといなくなってしまった。おいマック、どこへ行く  

 家の前は大きな通りになっていて車もけっこう往来する。しかし裏庭のすぐ奥は深い森になっていて小さな川が流れ、早朝にはリスが垣根の上を風のように走り、枝から枝へと飛び移る。この間の夜は、シロとクロが裏口から血相変えて飛び込んできて机の下や布団の中に隠れたので、なにごとかと外を見るとベランダに4匹のアライグマ親子がいてこちらを覗いていた。小川のあたりに棲んでいるらしい。ときには家の中まで入ってきて家の人達に一通り挨拶してまわることもあるそうだ。

 空気はきれいだし、空がすこぶる美しい。夕方になると裏庭の芝生に寝そべってよく空を眺める。ちょうど7時頃日中の陽射しが和らいだ頃がいい。刷毛でさーっと描き、綿をちりばめ、そしてどこから沸き出てきたのか力強く盛り上がった雲。ところどころ茜色に染まった真っ白な雲が、空の青、樹々の緑と見事なコントラストを描く。かたわらにはクロがうずくまり、ベランダにはシロが仰向けになって気持ちよさそうに目を細めている。心いやされる一時だ。

 この5月佐賀の神埼郡に下村湖人の生家を訪ねた。「次郎物語」の中で下村湖人は「永遠」と「運命」と「愛」を問いかけている。果てしなき時空とその中での出会いと愛、老連美村の自然と猫たちはそのことを実感させてくれた。

 間もなくこの地にも別れも告げ、陸奥のほうへと旅を続ける。別れの日はシロやクロが寝ている間に抜け出していくつもりだ。「街」の皆さんや「出会いの旅」に協力していただいている方々、そして「猫の手サポート隊」の皆さんにもよろしく伝えてほしい。

じゃあ元気でな、マック 1997年8月25日 老連美村にて

    
「全国ハート・ネット」ができた経過
 (週刊「街ニュース」第 302号 (1999年1月16日発行)より 

昨年の3月末に「街」のホームページの中にできた、誰もが自由に書き込むことのできる掲示板『心の広場』には9ケ月間で2万人弱の人が訪問してくれました。

 『心の広場』では毎日、いろいろな悩みや相談が行われてきました。大都市では病院や保健所のデイケアや共同作業所など社会資源がそれなりに揃っています地方で暮らす当事者にとって、通院するのに数時間かかるとか、地域に一か所しかない病院の医者と折り合いが付かなくて通院ができなくなっている人、一度も通院したことがない人、数年間も「引きこもり」生活を余儀なくされている人、無理解な家族から暴力を受けつづけている人など周りに理解者がいなくて、他者・社会とのコミュニケーションの唯一の手段としてインターネットの世界に集まってくるたくさんの若者たちと出会いました。福祉や精神医療と無縁の数十万人の若者が存在しているのではと思います。

 「街」では、そうした若者たちが数週間「街」に留学・研修・見学するためのショーステイ・宿泊の場として「街」の前のマンションの一室を借りて、昨年5月「ステイ街」をオープンしました。大阪のMさんが最初の留学生として宿泊したのを皮切りに、北は北海道から、南は九州まで 「ステイ街」に宿泊しました。

2番目の留学生は千葉の青年でした。彼の母親がしていたインターネットを通じて「街」のことを知り7年近い「引きこもり」「入院」生活に終止符を受つために「ステイ街」に来ました。彼は「街」の京都旅行&京都にある共同作業所「YOUYOU館」との交流に参加し、2週間の研修を終え「街」の近くにアパートを借り自立生活を始めました。そして今はアルバイトについて本格的な自立に向けて奮闘しています。

 その間、全国の当事者から、「街」への参加希望、見学、電話相談が殺到しています。大阪からSOSの発信がありハネやん&則子さんが新幹線に飛び乗ったこともありました。こうしたやり方では、とても「街」独力で対応しきれないと判断して、全国の仲間たちと連携を取りながら「サポート態勢」を作り上げるために、昨年12月にインターネット情報センター『全国ハートネット』を結成することにしました。 

 インターネット情報センター『全国ハートネット』は、ただ情報を流せばいいのでしょうか。ホームページに掲載する「気軽に行ける場、相談・電話相談のできる場」が『本気でサポートしよう』という意思と行動力にあふれていてほしいと思いました。そこで全国で草の根的に活動しているグループに「是非、協力してください」と要請をしました。最初に東京下町患者会「新松橋亭同人」が、次いで京都の前進友の会が協力要請に応じてくれました。
  『全国ハートネット』の結成を呼び掛けたすぐ後の12月5日には大阪で「関西版『街』を作ろう!」というインターネット仲間たちが第1回の会合を持ちました。現在は関西だけでなく西日本にも広がり、1月24日には結成大会が開かれます。
 患者会をはじめ、地域で地道で着実に活動を続けているグループ、キリスト教・仏教関係者等、これまでの「枠」や「壁」を越えて参加を表明してくれました。(1月13日現在)


亀 戸      下町患者会「新松橋亭同人」
江戸川       とぽす響きの会
江戸川       『遊人永屋・こどく館』
練 馬       「街」グループ
世田谷       喜多見教会(土・日)
多 摩       あきのティー・パーティー
その他               いのちの電話

             
こころの夜間電話相談

            
      
自殺防止センター
練馬区の女性センター
練馬人権センター(交渉中)
神奈川         YAPPYさん
名古屋         サポートネットワーク・坂神さん
京 都         たまりば・らくよう
京 都        前進友の会
四 国       ごかい
九 州    2ケ所(準備中)
クラブハウスめぐろの大賀さんから原稿依頼があったので、「街」の歴史を素描してみました。2002.2
 「街」から「ジュゴンの家」へ/ハネやん
1、「街」から
 1993年、共同作業所の職員時代に自主運営のリサイクルショップ「オープンスペース街(まち)」(以下、「街」)の設立に関わって以来、いろいろな場を作っては、壊してきた。
 地域で暮らしていた病院のデイケアのメンバーの自殺をキッカケに、94年に立ち上げた憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」は、携帯電話の広がりと共にその役目を終えた。
 95年に作った、食と楽しみの場・沖縄料理店「チャンプルー街」も、2001年6月に惜しまれつつ閉店した。
 ワープロにモデムを繋ぎながら始めたワープロ通信の時代、そしてインターネットの勃興期、「街」のホームページの中にある掲示板「心の広場」には、全国の若者たちの悩みが書き込まれ、それに応えるため24時間、携帯電話による相談を始めた。
 そして地方で孤立している若者たちが宿泊しながら学びあえる場・「ステイ街」が出来た。一時は、リサイクルショップ「街」の前にあるマンションを3戸借り、「関町ケアネットワーク」を含め多い時で10人以上の若者たちが宿泊していた。そして若者たちの内の何人かが自立していった。

 ある日、インターネットを通じて「街」のことを知り、引きこもり・通院・入院を繰り返していた息子を連れた母親がやってきた。Kさん(26才)を初めて見た時、思わず「高校生みたいだ」と思ったほど幼い顔をしていた。
 「今まで息子のためにいくらお金を使ったか知れない」 母親は定年を間近にひかえ、「もうこれ以上息子の面倒は見れない」「これが最後のチャンス」という悲壮な覚悟で「街」にやって来た。Kさんにも「もう、これまでの生活を続けたくない」というギリギリの覚悟があった。 Kさんは「街」で二週間の研修を終えた後、近くにアパートを借りて自立生活を始めた。御飯の炊き方も知らなかった彼だったが、まもなく「街」を卒業し、地域商店でアルバイトをはじめた。高校中退のKさんは近くにある定時制高校に通い、その後専門学校に進学した。そして今年初め、植木屋に就職が決まって、この街から巣立って行った。
 
 Kさんとは、何度も衝突して出て行ったり、否を詫びて戻ってきたり、本当に沢山のエピソードがあった。彼が自立できた理由は、Kさんの意地と素直さ、「生れ変わりたい」 という強い意志、それと「これが最後のチャンス」という母親の覚悟にあったのではないかと思う。
 その「ステイ街」も今は、混在型グループホーム「ハウス街」という一戸建ての家へと形を変えた。そこではかつての「ステイ街」の機能の他に、知的なハンディキャップを持った人たちの自立体験の場などになっている。
 リサイクルショップ「街」、憩いと相談の場「関町ケアネットワーク」、沖縄料理店「チャンプルー街」、宿泊研修の場「ステイ街」という4つの場は、今、「街」と「ハウス街」の二つに整理・縮小した。それでも衣・食・住+憩い・相談を、保障しえているのではないかと思っている。
2、「ジュゴンの家」へ
 「街」が出来た後、「街」のリサイクルショップ方式は、小平「カジャ」、三ノ輪「ゆいまある」、沖縄・名護「ジュゴンの家」、そして那覇「はんたぴあ」へと引き継がれた。
 「久良木さんの『日本全国・出会いの旅』沖縄編で紹介されていた女性で、「てるしのワークセンター」とか家族会の仕事をされている山里さんを交え、久良木さんの思い出、沖縄の精神保健の現状、『街』の目指している方向性など、日が暮れるのも忘れ語り合いました。話している中で、リサイクルショップ『街』名護店構想が僕の中でムクムクと頭をもたげてきた。

 沖縄に来て半月。第1期・ジュゴンの家から第2期・ジュゴンの家へ。この半月の過程は、『僕たちが沖縄で出来ること、沖縄の人たちと連帯する道、その内容を本土に持ちかえり、再びそれをふくらませて沖縄にフィードバックすること』を模索し、思考錯誤する半月でした。

 僕たちができること。徹底的に『地域』にこだわること。『連帯・共闘』を声高に叫ぶことではなく、地域の人たちの生活に根ざした現実から出発すること。これが『街』の精神・スタイルだ。たとえどんなに小さくても、一歩一歩堅実な前進を積み重ねて行きたいという想いで一杯になった」(2000.8.31「ジュゴンの家」日誌)
 2000年秋、4つの場の整理・縮小に伴って生れた力を、沖縄・名護のリサイクルショップ「ジュゴンの家」へ注ぎ込んだ。当初は、僕たち年寄組と、アリちゃん・ようこちゃんの若者組が、半月交代で「ジュゴンの家」を運営するという計画を立てていた。アリちゃんは、インターネットを通じて「街」と知り合った北海道出身の引きこもり・入院を体験した青年。その後、僕と共に沖縄料理店「チャンプルー街」のシェフとなり、生きづらさから自らを解放した。
 2000年10月15日の「ジュゴンの家」のオープンの手伝いに来ていた埼玉県の不登校の高校一年生・晋君は一年間、
「ジュゴンの家」の店長をつとめた後、昨秋から「ジュゴンの海の家」という移動式コミュニケーションの場を一人でスタートさせた。
「失敗は成功の素」
 若者たちの可能性を信じ、責任ある仕事につかせることが成長につながる、というやり方を僕たちは取ってきた。失敗したら一緒に考えて、そこから教訓を学びとればいい。
 昨年6月、不登校・通院・入院を経験している群馬県出身のUさん(23才)が、名護に移り住み、11月から「ジュゴンの家」の店長となった。昨年末には東京出身のSさん(24才)が沖縄に来た。彼は小学校の時から不登校を続け、通院体験者でもあるが、今では立派に「ジュゴンの家」の店長代理をこなしている。「ジュゴンの家」の若者は元気で信頼できる若者として、沖縄の人々に認められ、愛されている。生きづらかった過去を乗り越えて、沖縄のおじい・おばあたちの希望の星となっている。
3、「病」、癒し、から、解放へ
 押し付けられた生きづらさ、それを癒すだけでいいだろうか? 僕たちは、「病」・癒しではなく、人が人として生きることのできる社会づくりをする中で、自らを解放したい!
 2月3日の名護市長選挙。宮城康博さんの勇気ある立候補に対して、「街」と「ジュゴンの家」は12名で応援に行った。何しろ彼は、僕たちのバンド「ヨッシー&ジュゴンの家」のベースマンなのだから。その間「街」を守ったのは、メンバー、ボランティアさん、・お客さんたちだった。
 選挙戦など一度もやったことのない僕らだったが、ギターを弾き、歌を唄いながら朝から晩まで市街地を練り歩いて沢山の市民に訴えた。現市長の権力と金を使った無法選挙に一歩もひるまず、心の病やハンディキャップを乗り越えて最後までやり抜いた。当選を勝ち取れなかったとはいえ、僕たちに敗北感などない。やり抜いた勝利感で一杯である。

 「街」「ジュゴンの家」は本当に名護市長選を闘えて良かった。そして、やり抜くことの中で一人一人の足りない部分も知ることができた。更なる飛躍のための宿題として、選挙後、点検し、ただちに新しい挑戦を始めている。
 「病気が精神病院で超克されるとは思わない。私たちは外部社会で病気にうち勝たなければならないし、それは社会が変わることでそうなるのだと思う」(イタリア・トリエステの教訓)                   2002.2 記


青森★東通原発再稼働&新規建設阻止・NAZEN申し入れ
NAZENブログ から転載

徳島刑務所の刑務官に、朝のあいさつ立ちをしています。
朝の挨拶立ち あいさつ2
正門 菜の花


山の桜
「獄中を孤立させない、獄中を守る」具体的とりくみとして、2・5の地平をさらに進めるために、はじめた取り組みです。おもえば、第一回は、寒い霜のなかを事務局の大形さんとでした。

刑務官には、ビラ入れができないので・・・せめてあいさつ立ちですが、民衆の目を直接感じることは、少なからず意味があると思います。

刑務所の桜も満開、鶯が鳴いている入田です。カレンダーの絵の一枚に「グラウンドから見える緑豊かな山」も、桜がさいてきれいです。2・5をたたかい、3・30棄却、そして異議審に突入した私たちは、年年歳歳花あいにたり、年年歳歳人同じからず、です。

ところで、「菜の花」の写真に写りこんでいる黒塗りのクラウンは、刑務所の幹部公用車です。ナンバーが「4159」・・・「ヨイ、ゴク」とは!

これをみて、1年前ムバラクやカダフィや、自分を正義と言い続けたのを思い出しました。「原発再稼動は安全」「沖縄PAC3配備は、あなたを守るため」「国鉄和解は人道的」そして「徳島刑務所はヨイゴク」・・・手紙を墨塗りにする徳島刑務所につらなる全てが、ひっくり返りる日はそう遠くないな・・・そんな気持ちです。

8月15日を境に、国民学校の教科書が全部墨塗りになったように、今日、墨を塗られている所は、やがて数万人の労働者の前でその墨がはぎとられていきます。徳島に来る前は東京の矯正研修所教頭であった松本忠良所長・・・春というのに、彼のまえには、自分で自分を墨塗りにする人生の道が続いている
 下田 禮子さんの手紙
寒い冬もやっと過ぎたような気がします。
広島の平和公園の桜もやっと咲き始めました。
「街」の方はお元気で活動していらっしゃるようですね。
三里塚のピーナッツありがとうございます。
貴方達から贈りものが来る来るのはうれしいですが色々な出費が多い中、申し訳なく思はれてなりません。
本当にありがとうございます。1つぶ1つぶ大切にいただかせて貰います。気にかけてくださって本当にありがとうございます。
私も今年8月には82歳になります。力も弱くなりました。でも平和に対する思いは変わりありません。世界中から原発なくそうの思いはいっぱいです。ナゼン頑張りましょう。
気持ちだけペーパーを送ります。
皆様お元気で又お会いしましょう。
オープンスペース街の皆さんへ         下田禮子

 

三里塚芝山連合空港反対同盟 動労千葉 星野さんをとり戻そう!全国再審連絡会議 労組交流センター
動労千葉を支援する会
3・14法大弾圧を許さない法大生の会
北島邦彦の「すぎなみ未来BOX」
とめよう戦争への道!百万人署名運動
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2012年日誌
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